カテゴリ:映画
![]() 岡田斗司夫が「『風立ちぬ』は心中もの」と解説していたように、二郎は零戦を開発した後に死ぬつもりだったのだろうと思う。 彼は、自分の造る飛行機で大勢の人が死ぬ事を自覚していたし、菜穂子の死期も早める事になるだろうと感じていた。 それでも夢を諦めたくなかった、彼女と離れたくなかった。 上司の黒川が言う通り、確かにそれは二郎のエゴだ。 しかし、仮に二郎が戦争に反対し、零戦の開発を拒否したとしても、結局は誰かが造った飛行機によって多くの人命が失われるという現実は変えられない。 そして、当時の医学では、いずれ菜穂子も失う事になるだろう。 何もしなければ、自分はただそれを虚しく眺めている事しかできなくなるのだ。 ならば、いっそ地獄に堕ちる覚悟で夢に生きよう、恋に生きようと考えたのではないか。 菜穂子を駅へ迎えに行った時点で、二郎は死ぬ覚悟を決めていたのだ。 「一緒に暮らそう」は「一緒に死のう」も含意している。 補足になるが、結核とは大正から昭和初期にかけて猛威を振るい、「亡国病」と恐れられた伝染病である。 結核による死亡率は、1918年に日本で最悪の値となる257(人口10万人当たり)を記録した後は緩やかに低下するものの、戦時にまた増加し1944年に235となる。 現在、コロナウィルスによる死亡率は日本の人口10万人当たり13なので、二郎達が生きた時代に結核がどれ程の脅威だったか想像できるだろう。 (現代の感覚で言えば、毎年20万~30万人の日本人がコロナウィルスで亡くなる計算になる) そんな疫病を患い、自分も感染する恐れがあるにも拘わらず、二郎は菜穂子と「一緒に暮らそう」と言う。 それは「死んでも構わない」という二郎の覚悟の言葉である。 当然、菜穂子もその覚悟に気付いていた。 だから、黒川家で挙げた結婚式の夜に、彼女は自分から「来て」と二郎を寝床に誘ったのだ。 恐らく、サナトリウムを抜け出して来た時点で、菜穂子も死を覚悟していたに違いない。 二郎が菜穂子の前で煙草を吸うのも、これから死のうという2人にはもう何も隠すものが無いからだろう。 (それでも、ちゃんと「煙草吸いたい」と断りを入れる所に、二郎の優しさがある) しかし、二郎が零戦を完成させると同時に、菜穂子は彼の前から姿を消す。 やはり、彼に「生きて」欲しかったのだろうと思う。 生きていれば、きっとまた風が吹くから…。 本作における「風」を岡田斗司夫は「逆境」と解釈したが、僕は単純に「運命」だと感じた。 「運命を告げる風」と言い換えても良い。 たとえ、それが幸運であろうと不運であろうと、風が吹いた時、人は自らの運命と真正面から向き合い、全力で立ち向かわなければならない。 それが「生きる」という事なのではないか。 「風立ちぬ、いざ生きめやも」とは、そういう意味なのではないだろうか…。 と、ここでふと、ある疑問が頭に浮かんだ。 「二郎が宮崎駿の投影だとしたら、菜穂子は果たして誰なのだろうか…?」 僕は、それは「ナウシカ」ではないかと思う。 宮崎駿には、こんなエピソードがある。 彼は1979年に『ルパン三世 カリオストロの城』で長編アニメ監督デビューするが、それが興行的に大失敗し、それから5年間も彼はアニメ業界で完全に干されるという憂き目に遭っている。 そんな不遇の時代に、鈴木敏夫(後のスタジオジブリ社長)の勧めもあって宮崎が書き始めた漫画が『風の谷のナウシカ』だった。 それが1984年にアニメ映画化され大ヒットを記録した事で、彼は映画監督として復帰できたばかりでなく、やがて日本アニメ界を代表する存在にまでなる。 もし、『風立ちぬ』の二郎が監督自身の投影だとしたら、失意の二郎を立ち直らせた菜穂子は、失意の宮崎を救ったナウシカという事にならないだろうか。 (そうなると、「漫画を書け」と言った鈴木敏夫はカストルプという事になるのか…) 『風立ちぬ』とは、引退を決意した宮崎駿が、最後にナウシカとの思い出を辿ろうとした映画なのかも知れない。 そのナウシカが、ラストシーンで彼に「生きて」と言ったのだとしたら、それは常に自分の作品と心中する覚悟で向き合って来た監督が、初めて自己肯定をした瞬間なのではないかと思う。 だから、彼は「自分の映画で初めて泣いた」のだ。 如何だったろうか。 岡田斗司夫とは色々と違うが、それなりに面白い解釈になったのではないかと思う。 しかし、違うとは言え、岡田の解説が無ければここまでの深読みはできなかったろうし、そもそも改めて『風立ちぬ』を観たいという気にすらならなかっただろう事を考えれば、やはり彼には感謝しなければならない。 オタキングは伊達じゃないのだ(笑)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.10.11 20:27:29
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