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自分が力士になっている夢を見た。 もう1つのブログ記事 「祖母」 私にとって死の恐怖は如何にして薄らいでいったか。自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。 (「人生論ノート」p10より抜粋)
三木清はどのような意図でこの文章を書いたのであろうか? 哲学の分からない私にはよくわからない。 哲学史も勉強していないので「人生論ノート」がどのような位置づけをされ、意味を持っているのかも分からないが、後記は1941年6月2日となっている。 1931年の満州事変から10年。 現在に比べて「死」というものはだいぶ身近だったのだろうか? 結核が死の病であったように、病気で死ぬことは明らかに多かったであろうが、病死に加えてきっと戦死も多かったのだろうと思う。 あの人も戦死した。この人も戦死した。 そういう悲しい知らせを実際に肌で感じていたのかもしれない。 日中の戦いが泥沼になっている中、日米開戦ももう間近に迫っている。(1941年12月開戦)
なぜ戦争を続ける国があるのだろう? なぜ大虐殺が続いても続く政権があるのだろう? そういう疑問を持った事があるが、もしかすると三木清が書いた文章が大きな理由につながっているのかもしれない。 自分の周りで「死」がたくさん起こると「死」に恐怖を覚えなくなる。 更に進めば「あぁ、そんなものか」と思うようになり、死がたくさんあることをどこかで「当たり前」だと思うようになってしまう。 大粛清をしまくったスターリンは言った。 「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字だ」
21世紀の日本で「死」を見ることはまれである。 自分の家族の死を見ることもまれになった。 私は数年前まで自分に近い人間の死に直面することはなかった。 祖父母の死はそれまであったのだが、ずっと離れていた事もあり、リアリティが薄かった。 最後に残った母方の祖母が数年前に亡くなった。亡くなる前同居していた事もあり、自分の中では初めて「死」というものに接したように感じた。
年の割には変わった祖母で、晩年になってもネットでライブドアの株を買って損しまくったりと非常にアクティブな人だった。 (このブログを書いているPCも祖母の遺品!) そんな祖母はギリギリまで家で生活をしていたが、最後の最後に病院へ行った。 私は仕事があるので平日には見舞いに行けず、土曜日に母と見舞いに行った。 意識ははっきりしていて私が誰かも把握していたが、明らかに様子が変わっていて不謹慎な言い方かもしれないが「もうダメだ」と思った。仕事の関係で来週の土曜日まで来れないから「もう会えないだろう」と一瞬で悟った。 そんな状態の祖母が「もうお陀仏だなぁ~」と言った。 超アクティブな人間で絶対にそんなことをいうタイプではない祖母。そんな祖母が死を悟った言葉を投げかけてきた。変に知識欲が旺盛なだけに自分の病気のこともある程度は分かってしまっている。 その祖母の言葉に私は何の言葉も返せなかった。 「いやいやまだまだ大丈夫だよ」は白々しいにしても「(亡くなった)じいちゃんがしつこく呼んでるのか?」とも返せなかった。無言でいることしかできなかった。この無言の間、祖母はどう思っただろうか?
翌日、祖母は亡くなった。 今でも時折うまく返事ができなかったことを思い出す。何かうまく返したところで、何がどうなるわけでもない。 同居した孫の中では自分が一番祖母とうまがあっていたと自負している。 だから祖母はなんとも思ってなかったのかもしれないが、私の脳の中でずっと「何も返事ができなかった」事が残っていて、ふとした時に意識に上ってくる。
もしかしたら「死」と言うものが身近な世界、日中戦争の最中に同じことが起きたらこの出来事はそんなに気にならなかったのかもしれない。 身の回りでたくさん起こっている「死」のうちの1つとして片付けられかねない。 それは何か寂しい発想かもしれないけど、現実としては、大量の「死」に触れることで「死」と言うものに鈍感になってしまうかもしれない。
少し前、「(家族を含めて)死が身近でなくなったから、命を軽んじるようになった」と言う論調がはやったことがあった。 私はこの話を聞いて「だから何なんだ」と感じた。「じゃぁ、また死を身近な社会を作るのか?」と。
三木清は「人生論ノート」の中で次のようにも書いている。
この絶対的なものは、ただ絶対的な死であるか、それとも絶対的な生命であるか。死せるものは今生きているもののように生長きすることもなければ老衰することもない。そこで死者の生命が信ぜられるばらば、それは絶対的な生命でなければならぬ。この絶対的な生命は真理にほかならない。(「人生論ノート」p13より抜粋)
はっきり言って私にはなにを言っているのか分からない。 だから間違っていると思うけど勝手に解釈させてもらった。
「人間死んだらおしまいだ。だから生きなさい」
三木清がこんな当たり前のことをわざわざ書いたのかどうかは知らないけど、勝手にそう思っておく。 100%とは言えないが、そう思うことで終戦直後に獄中で亡くなった三木清に1%くらいは顔向けできるのではないか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.03.18 05:06:12
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