カテゴリ:魚沼一座
月曜日に参加したワークショップにかなり触発されて、地元の劇団のワークショップにも参加してみる気になった。魚沼一座というその劇団は、今秋公演を控えており、役者と裏方を大募集中なのだ。
今回のワークショップでは、その公演のためのオーディション(!)も兼ねているとのことで、練習風景をビデオに収め、それを観て脚本家がストーリーを描いていくという、なんだかワクワクするようなオマケ付き。本当は実際にこちらに来てもらう予定だったのだが、体調不良から来られなくなったのだそうだ。 さて、水・木曜にいずれも19:00から21:00まで行われたワークショップ。いち日目オレは遅刻していった。行ってみるともう始まっているではないか(当たり前か)。そこで行われていたのは、まずひとりが思いつくままの身体の動きと音(ドン、ドン、とか声に出す)で一定のリズムを刻む。それにどんどんそれぞれが思いのままの動きと音を重ね合わせるというもの。意味など無い。全体で、あるいは個々に、何かを意識して表す必要も無い。ただ、皆で一緒に楽しく身体を動かし声を出す。言葉にすればこんな簡単なことでさえ、いざやろうとすると照れや躊躇がある。照れや躊躇を体感し、それでもなお演じる気持ちを学ぶ…と、言葉にすればそんなところか。でも実際にやってみることでしか、そして身体でしか、それは感じることができないものだ。 その他にいち日目には、『おはよう』「おはよう」『朝ごはんは?』「うーん」『何にする?』「なんでも」という短い台詞を使って、ふたりひと組でいろいろなシチュエーションを演じる、ということもやった。3人組で、お母さんと小学生ふたりの演技をしてみた。何かしら、自分と違うものを演じるっていうこと。まぁ、普段から自分を演じていると言えば、すべての人がそうなんだろうがねぇ。自分以外の誰かを意識的に演じるということは、普段なかなかしないので新鮮だ。小学生役はまぁ、オレ的には精神的なノリが近いので(精神年齢が一緒とは、言えないなぁ)、演じやすかった。今思えば、猫役とかやりたかったなぁ。人間から離れてみても面白かったかもしれない。 2日目のワークショップのために、ABふたつのグループに分かれての、台詞の読み合わせをした。演目は、“アリとキリギリス”と“泣いた赤鬼”。オレは“泣いた赤鬼”チームに入れられた。 “泣いた赤鬼”の配役は、まず赤鬼、そして青鬼、子供たちとナレーションの人。練習なので、赤鬼2名、青鬼2名、子供たち3名、ナレーション2名で演じてみる。配られた台本を、交互に読みながら練習していく。最初は紙に書かれた台本を読みながら。それを1,2回繰り返して、次は台詞を言う相手の顔を見ながら、感情を込めて(というか芝居がかって、か)。台本読みに少し自信があったのは、1年以上続けている読み聞かせの経験があったから。いやほんと、おかげでだいぶ滑舌が良くなったのだ。声の大きさ、複式呼吸は路上演奏から。…何が役に立つか、わからないもんだ。 いち日目のワークショップの後半は、ほとんどその寸劇の練習で費やされた。演じていくうちに、誰もが遠慮無くアイディアを出していくようになった。子供も大人も分け隔てなく。一緒にひとつの目的のために結束する感覚が全員に自然に訪れる。演劇と言う非日常を通してだからこその部分も大きいのだろうな。 小学生の女の子の、キュートな赤鬼役。新しいことを躊躇無く楽しめる感覚は、やはり脳細胞が若い方が優れている。理屈ぬきで楽しむことにおいては、子供の存在って大きいよなぁ。いろいろ気付かされることが多かったし、勉強にもなった。何よりも楽しくて、頭の中にごちゃごちゃしていた諸々のことから、理屈抜きでぱっと離れることができたこと。煮詰まっている時には、自分以外の何かを演じてみるのもいいのかもしれないな。少なくとも、“今のオレ!オレ自身の問題!オレって、どーよ?!”ってヤツから、いち時的にせよ離れることはできるんじゃないだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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