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love&peace♪マチオの脱力生活日記!

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2006/02/15
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 これは、この日行われた講演会で取り上げられたテーマ、“セルフ・エスティーム”(上手く説明できんので、知りたい人は自分で調べてください)に関して、知人の方に宛てた手紙のいち部を抜粋したものです。ひきこもり当事者のセルフ・エスティームに関して思うこととして。

 * * *

 ひきこもりという状態が、『自分自身が十全でない』と考えるに充分なものであることはご想像いただけると思います。自分自身の望ましい在り方と現実の自分自身の状況を比較するならば、まったく対極と言っていい状況なわけですから。職に就き自分の食い扶持くらいは稼ぎ、人付きあいもそこそこに出来、表を大手を振って堂々と歩ける自分なら…と考える自分と、それは自分には絶対に無理だという確信めいたものに囚われている自分。それらの板ばさみになっていると、自分が無価値に思えるだけに、例え家族であっても自分以外の人に『負担をかけている』ということには非常に敏感になります。それは意識しないわけにはいきませんから。それに対して『申し訳ない』とか『後ろめたい』あるいは『つらい』『せつない』という気持ちがありながら、それを知られること、気取られることもとても怖く感じます。何故ならばそうした気持ちを持っているなら『何故動き出さないのか?』『働かないのか?』という問いが自分に向けて発せられるのではないかという怖れを抱くからであり、またその問いは、他ならぬ自分が自分自身に向けて常に発しているものでもあるからです。この点ひきこもっていた頃のオレは非常に律儀で、可笑しな話ですが、“『申し訳ない』と思う価値すら無い自分”という感覚に、気持ちの持っていきどころを求めていたのかもしれません。どこまでも際限なく自分を貶めることで、ようやく生きていることを許されている。…なんだか矛盾しているようですが、自分自身が無力であることを体現することで、他の誰かを煩わせて生きていることの言い訳にしていました。そこに、セルフ・エスティームはありませんよね。

 自分を無力で無価値だと考える人の多くは、おそらくこうした思いに囚われて身動きがとれなくなるもののようです。他人事のように書いていますが、それがかつてのオレでした。自分自身の価値を認めるためには、行動を起こしどんな結果であってもそれを受け取らなければなりません。自分が無力で無価値だという確信が揺らげば、どこまでも自分の力で手に入れなければならなくなる、誰の世話にもなってはいけないのだ、とオレはそう思いこんでいました。救いや助けを求める態勢が整っていなかったということもありますし、ひきこもり生活が招く結果を受け容れるということが、怖くて尻込みしてしまうような有様だったんですよね。だから、『駄目な自分』をはっきりと意識し、半ば確信して生きている…ということが、これまた可笑しな話ですが、最終最後のプライドだったのかもしれません。それが自分自身の『囚われ』だったのかな、と。

 先日の講演でお話いただいた方は、資料の中の『セルフ・エスティームは自分で気付き、育むしかない』と言う言葉に疑問を呈していらっしゃいました。これはつまり、他者からの働きかけでそれらを身に付け養うように働きかけることができるという意味で言われたのだと思います。その点、異論はまったくありません。むしろ、他者からの働きかけが無ければ、独りでは気付き育むことは不可能であるとさえ思います。しかし、オレにとって『自分で気付き、育むしかない』という言葉は、大きく頷けるものでした。つまり何が言いたいのかというと、他者からの働きかけは必要不可欠でかつ有効であるにも関わらず、そうした働きかけが、必ずしも常に報われるとはかぎらないということです。本人が“無条件の”自己肯定の感覚に気付き受け入れる体制が整わなければ、際限無く繰り返される徒労を覚悟しなければならないもの、という意味で。無条件の自己肯定という領域は、援助者はもちろんのこと、本人にさえ意識的に操作できないもののように感じます。ですから、祈りながら待つしかない部分が必ずあるのだと思います。みもふたも希望も無いように感じられるかもしれませんが、援助者の働きかけがすぐさま功を奏さなくとも、援助者も当事者も自らを責めることはないのだ、というふうに読み取っていただければさいわいです。自己否定に囚われている人への働きかけは、大量のハズレくじの中から数少ない当りを引き出そうとするようなものかもしれませんね。“当り”とはこの場合、自己肯定感が行動として現れ、見受けられるというような意味だとお考えください。際限なく繰り返しひき続ければいつかは当る…それくらいの気楽さで根気強く続けることがよいのではないでしょうか。

 この文章を書いていて、先日の講演会で漠然と感じていたことが少しだけはっきりとしてきたように思います。セルフ・エスティームは、相対する人同士のそれらが共鳴し、強めあうものであるかもしれません。学校であれば先生たち、家庭であれば両親が、どれだけ無条件に自分自身をたいせつにできているか?それを態度で示すことができれば、多くの言葉を費やさずともそれらは伝わり、子供たちを取り巻く環境はよりよいものに変わっていくのかもしれませんね。オレもひきこもり支援活動を続けていくにあたり、まずは自分自身のセルフ・エステイームを見直すことがたいせつじゃないかな、と考えさせられました。

 最近は、自分自身の自己肯定感がかなり揺らいでいることを感じます。それを養い育むためには、やはり自分自身を肯定的に受け止めてくれる誰かの存在が必要なんだなぁとしみじみと感じます。同時に、支えられ助けられることを必要としている自分自身を認め、心を開いていくことが必要ですね(この点で今のオレは問題アリ、なのかな?)。このことに、これで充分ということは無いのかもしれません。生涯学び続けるべきことのうちの、ひとつではないでしょうか。

 自分以外の人の心の動きや気持ちに意識的に関心を抱く人は、例え職業的にそれらに関わる人であっても少ないように感じます。たいせつなことは常に現状に疑問を持ち、興味を抱きながら学び続けることです。他の誰かの気持ちと向きあうことは、自分自身の気持ちと向きあうための最良の手段のひとつでもあります。そこから多くを学ぶことができるということを知っている人は、とてもさいわいです。お互いに、続けていきたいものですね。






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Last updated  2006/02/23 06:18:22 PM
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