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カテゴリ:旅に出て人と会う
夜更けのアタテュルク空港は出迎えの人も少なく、昼間の喧騒が嘘のようにがらんとしていた。モスクワ経由でやってくる娘の乗った飛行機は、40分遅れて0時45分に着陸した。出口に娘が現れたのが1時25分。タクシーで家に着いたのはもう2時近かった。 彼女は空港で私を見るなり開口一番こう言った。 「お母さん、くやしいよ。モスクワで、近所への土産の半分を没収された! まったく強盗みたいな空港職員ばかりだわ」 娘は同じアパートや近所の、折々食べ物を作ってはおすそ分けしてくれる奥さん達に、日本からテフロン加工の軽くて丈夫なフライパンを8枚買ってきたところ、モスクワで乗り換えるとき、X線でまるまる形の映ったフライパンを見て、担当の男がにたっと笑ったのを見たそうだ。 「いいもの見っけた」という表情だったという。モスクワに着くまで、アエロフロートの公然の秘密、荷物抜き取り事件を心配していたと言うが、やはり目をつけられたのだ。 「機内持ち込みにこんなものを持ってはいかん。置いていきなさい」と言われ、「それは困る」と言うと、半分の4枚だけ取り上げたのだそうだ。禁制品でもなんでもない。日本から出るときは同じアエロフロートでもなんとも言われなかったそうなのに。 かくて4軒分の土産が減ってしまい、何をどう融通しようか娘は悩んでいる。うちへ買ってきたものから回すしかない。私は物干しハンガーや大きな布団バサミなど日本製の便利な品々を諦める気になった。 悦子には少し仮眠を取らせ、私は再び昨日書き上げた原稿に目を通した。もし、単語をど忘れしたりつっかえたりするといけないので、一応トルコ語でも脇に書いておこう、と思ったのが間違いの元だった。 鉛筆書きで余白が埋まって演説原稿が非常に見ずらくなってしまったのである。夜が白々と明けてきた。あいにく全部は出来上がらなかった。よし、残りはバスの中だ。 前夜のうちに仕掛けておいたとり釜飯を炊き、シャワーを浴び、悦子を起こして出る仕度に取り掛かった。8時45分家を出てタクシーでエミニョニュに。 エミニョニュからアジア側のハーレムにはちょうどいい具合に9時発の小さな汽船があった。これに駈け乗り、揺れる船室でパック詰めにしてきたとり釜飯を食べた。 ハーレムで9時30分発アダパザール行きのバスに間に合った。1時間40分ほどの行程である。娘は爆睡状態、私はまた書類を取り出した。トルコ語を書き込まないほうがスムーズに喋れるのだが、さりとて私の変な癖で、一度始めたものを途中放棄は出来ないのだった。 何しろ、ポテトチップでもせんべいでも袋を開けたら最後、半分は次の日に、ということが出来ない性格なのである。(比較の対象がちょっと違うが・・・) 出発前に「サカルヤ大学財政学部学生自治委員長」のメティン君に電話しておいたので、彼は同学部の教授メティン先生(同名)と一緒に車で迎えに来てくれていた。 眼鏡をかけてやや神経質そうだが、メティン君の真面目な清潔そうな人柄には悦子も好感を持ち、先生のメティン氏はまた大学の先生らしくない、にこやかな腰の低い人だった。 トルコ第5の湖、サパンジャ湖を見下ろす小高い山の頂上にあるサカルヤ大学は、幾つかのアカデミーが統合されて1992年総合大学として認可され、広大な敷地といくつものキャンパスと35,000人の学生を擁する非常に大きな国立大学だった。 トルコに数ある公私の大学でも財政学部を持つ学校はまだ少ないのだという。ゆえにこの学部の卒業生は国家公務員の登用率も高く、また金融・税理関係の仕事にも引く手あまたであるらしい。 春先とは思えない上天気だった。サパンジャ湖を見下ろす逍遥道をそぞろ歩きながら、別棟の10,000人が一度に食事できるという大食堂に行って昼をご馳走になり、昼食後学部長のエンギン氏と面会した。 午後2時10分、財政学部内の小講堂で百二、三十人の学生が待っているところに案内され、メティン君の司会で私が紹介され、講演が始まった。 「サカルヤ大学の皆さん、こんにちは。ご機嫌いかがでいらっしゃいますか。今日は私をお招きいただいてありがとうございました。皆さんとお会いできて光栄に存じます」 と話し始めると、脇で見ていた娘の話では、私の口からとりあえずまともなトルコ語が出てきたので、イズレイジ(聴衆)がホッと安堵したのが伝わってきたと言う。 私にも、「うん、いけそうだ」と思われた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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