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カテゴリ:日本を思う/日本にいる人々を思う
【8月28日・水曜日】 27日は昼からずっとたまさんと一緒にいたので帰りが少し遅くなった。すっかり暗くなってしまったため、坂道を上ったり下りたりしながら家に帰りついてすぐに猫達の餌の支度に取り掛かった。 その間に、夕方イスタンブール旅行に来ているという日本女性から、2~3日の間にアパート・ホテルを探してください、という頼みが来ていたので、心当たりの家主2軒に電話をかけてみたものの、どちらも連絡が取れない。 明日でも大丈夫だろう、とその話は置いておいて、自分の夕食用に焼きそばを食べてそのあと髪を染める用意をした。 歩いて汗も掻いたし、髪を染めたらカットして入浴もしよう、と考えていたが、風呂を汲み始めてからこの間にメールチェックを、とパソコンも開けてみた。 Facebook関連のお知らせメールが山とある中に、ふつうの質問状や依頼状が何通かある。それらをまず先に開けてみるのだが、その中にアイシェ先生自身のアカウントから、ご主人が書いたと思われる先生の訃報が届いていたのだった。 ここ1年半余り、闘病生活を送っておられたのは知っていた。去年の4月、私が日本に行った折、お見舞いに行くつもりでいたが、抗がん治療に入ったばかりの時だったため、会う機会はなかった。 私はどきどきしながら、訃報のすべてを読もうと急いで風呂の湯を止めた。アイシェ先生は東京外国語大学で教べんをとる傍ら、うちの娘なども所属するトルコ語研究会の勉強会にも、ボランティアで協力してくださっていたとのことである。 娘は、「先生がね、V子さんのお母さんとぜひお話したい、とおっしゃるので、今度先生がイスタンブールにいらっしゃるときにご紹介するね」と常々言っていたのだった。 2011年の春、アイシェ先生のイスタンブール訪問時、私は連絡を受けて会いに行き、その後もう一度お会いする機会があった。先生は私がメヴラーナに関わる翻訳やCDの吹き込みなどをしていることを喜んでくださった。 「この冬、私はぜひコンヤに行こうと思っているので、ご一緒にメヴラーナ廟に詣でて、夜はシェビィ・アルースのセマーを並んで観ましょうね。私の子供時代、叔父がメヴラーナ博物館の館長だったので、何度もシェビィ・アルースには行きましたよ」 もちろん、私に異存はなく約束が出来あがった。アイシェ先生は「ぜひとも、あなたご自身のカレム(ペン)によるメヴラーナの伝記が読みたいわ! きっといまに書いてくださいね」とも言われた。 私もその後、先生の教え子の中でメヴラーナに関する卒論を書く予定の学生さんに、拙いながらも2007年に刊行された日本語訳の「メヴラーナ・ジェラーレッディン・ルーミイ」を贈って協力したりしていたのだが、その年の暮れ、コンヤにお見えになるかどうかを尋ねたところ、その頃から病魔が忍び寄り、体調を崩されて療養中だとのことだった。 先生が去年一度小康を得て教壇に復帰されたことを聞いたときは、それでは今年の冬こそシェビィ・アルースに、と思ったのだが、それも今は帰らぬ夢となった。 29日に東京でお別れ会を催した後、ご本人の生前からの望みで、30日に空路イスタンブールに無言の帰国をされ、31日、ウスキュダルのシャキリン・ジャーミイで昼のナマズ(お祈り)のあと出棺、すぐそばのカラジャアフメット墓地で、ご尊父の隣に埋葬されると言う。 今朝に持ち越しになったヘアダイとカットは済ませたものの、一日中気が重く悲しくて、猛然と掃除をするはずだったのに何もせずに過ごしてしまった。夕方、やっとのことで、ご主人の富成太郎氏にあててお悔やみを書いだ。 1月に私も父を亡くして日本に帰ったが、そのときは時間もなく、お会いすることが出来ないままイスタンブールに戻って来てしまったことが悔やまれる。 でも、私にはメヴラーナのこんな言葉が思い出されてならない。 私の墓にお参りして下さっても私はそこにはおりません。なぜなら私は私を想ってくれる人々の胸の中で生き続けているからです。 アイシェ先生が子供の頃から見慣れていたであろうウスキュダルからの眺め 右側に乙女の塔 左側にはサライ・ブルヌ(宮殿岬)、 トプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスクなどが見えます。 お知らせ ◎※△ 海泡石(リュレタシュ)がネットで買えます! イスタンブール唯一の海泡石アトリエ、シナン・ウスタの作品がついにネットで購入出来るようになりました。追々品数も増やしていくとのことです。ぜひご覧ください。 ネットショップ 「リュレタシュ」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2013年08月30日 04時42分40秒
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