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カテゴリ:日本を思う/日本にいる人々を思う
【3月9日・日曜日】 去年の12月15日、千葉県流山市の菩提寺で父の1周忌(同年1月10日没)の法要があり、午餐のときに千代子叔母さん(父の妹)がバッグから小さなビロードの袋を出して、中に入っていた金のチェーンのついたトルコ石のペンダントを私に見せながら言った。 「由美ちゃん、ほら、これ覚えてる? あんたが私の誕生石だからってこの指輪を買って、トルコで知り合った大学生の若いお兄ちゃんに持たせてくれた、あれよ。石が大きいからこの間、指輪より使い道の多いペンダントに作り替えて貰ったのよ。あれからもう、16~7年経つねえ」 「ああ、そうだったわねえ。そんなことがあったわねえ。あのお兄ちゃんはレイ君という名前で、習志野から来たっていうから、日本に帰る時、叔母さんのところに届けて欲しいって、私が頼んだのよねえ・・・」 叔母と私はそれから二言三言、その若いお兄ちゃん、レイ君について話をした。 「彼が結婚して、坊やが生まれたところまでは聞いたのよね。ただそのあと、いつのまにか音信不通になってしまってずいぶん経つわ。どうしているのかなあ」 「そのうちひょっこり連絡があるかもしれないね。あんた、いつもそうじゃないの、しばらく会わない人のことを話すと必ず、当人から連絡が来たり、道でひょっこり出会ったりするって、いつも言ってるじゃない」 「そうなのよ。十中、八九、本人から電話が来たり、思いがけないところで出会ったりするのよね。しょっちゅうそういうことがあるの、子供の頃から霊感乙女だったからね、私」 そう言って私は笑った。 法要が済んだあと、母方の叔父の妻で、病床にある幸江叔母さん(その後暮れに逝去す)の見舞いに寄ってから、私は野田市の息子の家に戻り、その夜のイスタンブール行きに乗るために、息子の運転する車で、娘と千代子叔母さんに送られ、慌ただしく成田空港に向かったのだった。 翌朝早くイスタンブールに着き、一旦家に帰って荷物を仕分け、コンヤ行きの支度をして、コンヤのメヴラーナ追悼祭「シェビィ・アルース」に間に合うよう、夕方には再びアタテュルク空港からコンヤへと飛んだ。 それから50日余りが過ぎた。 3月8日は、それまでの数日と打って変わって冬が一気に逆戻りしたかのような、雨模様の土曜日になった。午後から友人の美樹さんに頼まれた用事を手伝うため一緒に外出し、その帰り、2人とも多少両替の必要があったので、レートのいいグランド・バザールに立ち寄ったり、ミニアチュール(細密画)展を見たりした後、共通の友人のところに顔を出したりして、家に帰り着いたのが夜8時少し前だった。 アパルトマンの玄関にある郵便受けに、午後配達されたらしい白い封筒が目についた。それは私宛てだった。差し出し人の名には心当たりがあった。 「Satoru & Kumiko Ikehata」 ああ、習志野の池畑悟さんと久美子さん、それは、法事の席で叔母と噂したあの青年レイ君の両親の名前だった。本人ではないがこの前話をしたので、やっぱり連絡が来た、と思った。もしかすると両親が近々、トルコ旅行に来るから会いたい、というような手紙だろうか(私のカンは時として非常に鋭い)。 封筒を開ける前に家の猫と、雨の中でお腹を空かして夕食を待つ野良猫達の餌を配ってきた。 部屋に戻って落ち着いてから、裁ちばさみで丁寧に封筒の端を切り取り、中から便せんを出すと、その中に可愛らしい顔の11~2歳の男の子と、妹らしい女の子が並んで写った写真が出てきた。手紙の日付は2月23日になっていた。おや、おや2週間も経っている。 「加瀬由美子様 突然の手紙をお許しください。私達は17年前イスタンブールで加瀬様にお世話になった池畑怜の両親です。実は私達は3月8日から10日間、ツアーでトルコ旅行をすることになり、もし加瀬様にお会い出来る機会があればお会いしたく手紙を書かせていただきました。」 ほらね~、私の第六感は今でも冴えているわね、と思った。 でも3月8日って、今日ではないか。ではもうこの時刻にはホテルに着いているに違いない。だが、その次の行を読んだ私は息が止まるほど驚いた。 「実は、怜は13年前(2001年)結婚し、2児をもうけましたが、9年前(2005)突然の心疾患で亡くなりました。その後、怜の妻は、一人で2人の子供を育て、子供達も現在は長男、小学5年生、長女小学3年生になっております。子供達の写真を同封させていただきました。(後略)」 ええっ、まさか、そんな~・・・ 私はその数行を何度も読み返し、子供達の写真を見ながらしばし涙にくれてしまった。 やがて私は涙をぬぐい、手紙の中に初日に宿泊する五つ星ホテルの名前が書いてあったので、電話番号をネットで調べてかけてみた。ところがホテルでは、D・ツーリズムのグループは確かに泊まることになっているが、そこに池畑夫妻の名前はないと言う返事。 同じ名前の四つ星ホテルがもう1棟、隣の敷地にあるとのことなので、そちらの方も調べて貰ったが、やはり夫妻の名前はないと言う。 もしかすると、手紙を出した後、何か用事が出来てキャンセルしてしまったのだろうか、などとも考え、私は途方に暮れたが、ふと思いついて、去年の2月知り合ったD・ツーリズムの女性社員T子さんに電話をかけ、わけを話して、出勤した時に、池畑夫妻がツアーに参加しているかどうかを調べて貰えるようにお願いした。彼女は快く引き受けてくれた。 そのうちにふと私は、鍼灸診療ツアーにパソコンを持って行かなかったので、コンヤから戻って来た日に、メールやFacebookの友達リクエストがたくさんたまっていたことと、そのリクエストの中に、Rikako Ikehataさんと言う女性がいたことを思い出した。 ずっと忙しくてしばらくFacebookにも手をつけられず、つい昨日、怪しげなリクエスト以外には承認のクリックをしたばかりだったが、中のメッセージはチェックしていなかった。もしかしてあの人は・・・と、急いで開いてみると、リカコさんのアカウントのプロフィール写真になっている女の子が、まさに私の手元にある写真の子だったのである。 そして、リカコさんのメッセージ欄にお父さんからのご挨拶と、「怜のお父さんのメッセージが加瀬さんの目に留まりますように・・・」という彼女の書いた一文も入っていたのだった。思わず肌が粟立った。怜君の遺族の人々が、幾日も前から私をこうして呼んでくれていたのだ。 私は一方でこの、怜君の未亡人であるリカコさんのFacebookのメッセージ欄にも、ホテルに電話をしてもグループの中に池畑夫妻の名前が見当たらないと言われた旨を書いて、もし、ご両親のどちらかの携帯番号でも書いていただければ、直接連絡が出来るかもしれない、と結んだ。 もはや夜中の1時近くだったので、土曜日の午後からずっと寒い中を歩き回った疲労で足腰が冷え、ひどく眠くなってしまい、パソコンを閉じて私は横になった。 翌朝は日曜日、目覚めるが早いかパソコンを開けてみたがまだリカコさんからの応答はなかった。こちらの昼近くなって、開きっぱなしのパソコンに彼女からのメッセージが入ってきた。 私はリカコさんとチャットをする態勢になってから、両親の泊まるホテルが直前になって変更になったこと、家を出る前にそのことを知らせられないまま行くので心配だ、と言っていたことなどを聞いた。それに携帯電話は持っていない、とのことだった。 それでもとにかく、変更になったホテルの名前を教わったので、彼女とのチャットを一度中断してホテルに電話してみると、あいにくグループは少し前の朝8時頃にはもうバスで出発してしまっていたのが分かった。 リカコさんとのチャットに戻ったが、もどかしいので電話番号を書いて貰い、すぐに通話に切り替えた。 初対面、というか、初めて話をするのに冒頭から互いに涙なしには語り合えなかった。 「加瀬さん、いま怜の仏壇の前にきています。お声が届くかと思いまして・・・」 「ありがとう、リカコさん。どうか私からも、怜君にお線香をあげてくださいね」 話は17年前の1997年にさかのぼる。怜君は大学4年生の夏、友人と卒業旅行のつもりでトルコ旅行に来てあちこち巡り、最後に幾日かイスタンブールに滞在して、いよいよ帰国するという日の朝、前の日まであったパスポートや航空券を失くしてしまったのに気付いたと言う。 9月半ばのことだった。用事があって午後から、当時タキシム広場からすぐ近くのギュムッシュスユにあった日本総領事館に行くと、まだ昼休み中で閉まっている領事館の通用口の階段に、しょんぼりとして肩を落とした青年がスーツケースを脇に置いて腰かけていた。私も彼はパスポートを失くしたのではないか、とすぐに見当がついた。 それが怜君との出会いだった。「こんにちわ、なにかあったの?」と声をかけると彼は思い悩んでいたらしい顔を上げて、「パスポートをなくしたんです・・・」と答えた。 私はその前の年にも、パスポートを失くしたご婦人のお世話をしたことがあったので、一時渡航証の発行について、多少手伝ってやることが出来た。自分の用事もその間に済み一緒に外に出て、このあとどこに泊まるのか聞いてみると、怜君は前夜が最後だと思い、友人と楽しく飲食してしまったため、ほとんど持ち合わせがないことを打ち明けた。 「じゃあ、うちに来る? 泊まる部屋なら心配ないわよ。そうなさい」 「えっ、見ず知らずの僕を泊めて下さるんですか?」 「何言ってるの、見ず知らずじゃないでしょ。もう2時間も一緒にいて喋っているじゃないの」 「はい」 「遠慮しなくていいからね。そうだわ、私も忙しいので、犬の散歩と留守番をして手伝ってくれる? アルバイトよ、アルバイト。それを宿賃、てことにすればいいじゃないの、名案でしょ?」 「はい!」 「よかった、少し元気が出たわね。うちの犬はデカ物だから散歩するのに力がないとだめなのよ、晩ご飯、美味しいものを作るからね」 そして私は怜君を、当時ジハンギルで借りていた海の見える家に連れ帰ったのだった。つづく。 (なお、池畑家の皆様のお名前は仮名で書かせて頂いています。) ボスポラス海峡を北上する黒海クルーズの豪華客船。(アジア側、チャムルジャの丘から撮影) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014年03月15日 16時38分40秒
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