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madamkaseのトルコ行進曲

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 marnon1104@ お久し振りです (。≧ω≦)ノ!! kaseさんのお誕生日だったのですね。 お元…
 marnon1104@ Re:トルコでシュウマイはいかがですか?(07/08) kaseさん、こんにちは(*'▽')♪ …
 madamkase@ Re[1]:渡航記念日(03/16) 高見由紀さんへ こんにちわ、イスタンブ…
 madamkase@ Re:渡航記念日(03/16) marnon1104さん、こんにちわ。 3月に書い…
 madamkase@ Re:トルコでシュウマイはいかがですか?(07/08) ひなのさん、おひさしぶりです。 トルコは…

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2014年03月10日
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【3月9日・日曜日】


 その頃私は、1996年6月末に開いた最初のかせレストランを、雇いの日本人女の仕掛けたペテンにかけられて、借りていたホテルから追い出されたばかりだったが、幸い家のそばの三つ星ホテルの屋上にある建物を借りて、全面的に和風の内装を施して年内に再スタートする話に漕ぎつけ、困っている人を家に受け入れるくらいの気持ちの余裕はあった。

 犬の散歩の仕方を覚えて貰うために、怜君と一緒にジハンギルの絶景駐車場など、いつものコースを回り、帰り道に懇意にしている肉屋さんで、ダナー・ボンフィレ(子牛のヒレ肉)を買って大判の分厚いビフテキを焼いた。

 怜君は実は本名が私の息子と同じだったので余計ほだされたのかもしれない。ビールを抜いて乾杯し、副菜に作ったねぎぬたや焼きナスを怜君が喜んで食べてくれるのを見て、私も心底嬉しかった。

 翌朝は一緒に散歩に出て、私は途中で別れ、家と犬を怜君に預けて、イスタンブールから東に100キロ余り離れたコジャエリ県のイズミットまで仕事で出かけるため、シルケジのフェリー乗り場に向かった。

 彼がいるおかげで、ビクターを安心しておいて行かれるのが有難かった。翌日戻ってくると、ビクターはもうすっかり怜君に慣れて、夕方になると散歩に行こう、と彼にキューキューと鼻を鳴らして甘えるのだった。

 多分、9月20日の土曜日だったと思うが、私はイスタンブール市民のリゾートであるビュユック・アダ(大きな島の意)に、怜君と知り合う1日前に知り合った旅行者の京子さんと言う中年女性を案内してあげる約束をしていたので、怜君も誘ってシルケジから出るヴァプル(蒸気船)で海路1時間半かけて遊びに行った。

 島は一般車両が通行禁止なので、ファイトンという二頭立ての馬車がタクシー代わり。3人で島を一周するコースに乗り、風光明媚な島の眺めを楽しみ、遅めの昼ご飯は船着き場に近い魚レストランで海の味を堪能したのだった。

 月曜日になって怜君が、領事館に電話を入れると、先日手続きした通り、領事館の指定口座に両親から渡航資金が振り込まれた、と確認され、一時渡航証が出して貰えることになり、夕方の成田行きに乗れることになった。

 家を出るときに、怜君はちょっとはにかんだ様子でこう言った。
「僕は加瀬さんにお会いした日、パスポートを失くしてよかった、と思いました」
 
 日本に無事帰りついた怜君からお礼の電話が来て、お母さんが「今度日本にいらしたときはぜひ、私どもの家にお越しください」と言ってくれたのだった。
 

 その後私にはなお、夫の死や開いて半年後のレストランの爆発や乗っ取りなど、有為転変著しい数年が続き、最愛のビクターは2001年の4月下旬に、シベリアン・ハスキーとしては15歳の天寿を全うして帰らぬ旅に出た。

そしてその数日後、5月に入ってすぐ息子に会うために日本に帰り、怜君とも連絡を取って、とある日曜日、習志野のお宅にお邪魔し、再会を果たしたのだった。

 池畑家は、静かな住宅街の一角にあった。広い庭にウッドデッキがしつらえてあり、手入れがいいのか、アジサイなど庭木や花がきれいだった。よいお天気だったのでデッキでお母さんの心づくしのお昼を頂いたのだった。

 そのとき、「僕はこの10月に結婚するつもりです。もし式に出ていただければ嬉しいです」と怜君が照れながら言ったので、私はそれに合わせて日本にまた来るつもりになった。

9月25日のフライトを予約しておいたところ、9月11日にニューヨークのあのテロ事件が起きて、日本総領事館から少なくとも2ヵ月くらいは海外旅行を控えるように、と警告があり、私は2週間後のフライトをキャンセルせざるを得ず、残念ながら怜君の結婚式には出られなかったのである。


   雨 雨 雨


 もう、長い友達だったかのように、リカコさんと小一時間も喋って、一気に親しみを深めた。お父さんが置いて行ったスケジュール表のコピーでは、9日、日曜の朝は昼までイスタンブール市内観光、そのあと、お魚のグリルをお楽しみください、と書いてあり、時間は12時半から1時半になっていると言う。

 レストランの名前は書いてなくても分かる。スルタンアフメット地区の見学をしたD・ツーリズムのグループは、必ずマルマラ海沿いの自社のレストランで食事をしてから次の目的地に出発するのである。

 リカコさんにそのレストランまでご両親を追い掛けて行ってみます、と告げ、電話を切って、出かける支度をした。

 そのレストランに早めに行って池畑夫妻のいるグループを待つことに決めたのだった。タクシーを飛ばして12時10分頃に到着した。レストランのグループ用ホールには、二組の日本人グループが食事をしていた。

 ガイドさん2人が話を聞いてくれたが、「もしかするとさっき食べ終わってアンカラへ出発したグループだったかもしれないよ」と1人が言った。
「え? でも12時半からとなっているのでそれに合わせてきたのですけど」
「うん、たまに早く回り終わって早く食べて出て行くことはあるからね」

 店のボーイ長に聞くとこのあと、12時半に到着するグループがあるとのことなので、私は待ってみる気になった。

 ガイドの1人メフメットさんが「あなたを知っていますよ。かせレストランのマダム・カセさんでしょう」と言った。それを聞いたもう1人のガイド、キュルシャットさんがすぐに席を立ち、人声のざわざわしないところに行って、さっき出発したグループのガイドさんに電話をかけてくれたのである。

「カセさん、いま、ビラルさんに電話しました。たしかに池畑さんと言うご夫婦が彼のグループにいるそうです。あのグループはアンカラでは○○ホテルに泊まりますから、夜7時過ぎならもう着いているでしょうから、そこに電話してごらんなさい」

「ああ、ご親切にありがとうございます」
「どういたしまして。私もあなたを知っているんですよ。やはり日本語の女性ガイドSさんが紹介してくれたことがあるんですよ、空港で」
「えっ、そうでしたか。あれは2002年のことでしたよ。そう言えばまだお若いガイドさんを紹介していただきましたけど」
「それが私ですよ」

 私は驚きを隠せなかった。ここでは池畑夫妻に会えなかったが、いま、神様は確実に夫妻と私を会わせてくれるかのように、ここにいるガイドさんが2人とも私を知っていて、親切に協力してくれているのである。

 私は心から2人のガイドさんにお礼を言ってレストランを出た。風の強い海辺の道を、傘がお猪口にならないように気をつけて歩き、風のあまり強くない横道に入ってから、リカコさんにもう一度電話をかけた。

「加瀬さん、あちらこちらに行っていただいてすみません。でも、2人の足取りがつかめたと聞いてほっとしました。」
「ええ、今夜電話してみて、結果をお知らせしますからね」

 一足違いで会えなかったとはいえ、がっかりしてはいなかった。リカコさんが私に友達リクエストを申し込んだ後、毎日何度も何度も私からの返事が来ているかどうかをパソコンにはりついて待ちわびていたと聞いたので、このくらいは私もやらなくてはならない、と思った。

 そのあと、私はD・ツーリズムのT子さんにかけたが通じなかったので、電話をしまい、かなりきつい上り坂をブルーモスクを目指して上っていた。美保子さんと昼を一緒に食べようと思ったのである。


 美保子さんがチャイを淹れてくれたので有難く頂いていると、2時少し前、T子さんから電話がかかってきた。私はレストランに会いに来たものの会えずじまいだったいきさつをかいつまんで話し、ビラルさんの電話番号を教えて欲しいと頼んだ。

 T子さんがビラルさんに話を伝えるために一旦切り、かけ直してくれた。まだバスでアンカラに向かっているところなので、6時半過ぎにホテルに着いたあとなら大丈夫とビラルさんが言っていることと、彼の電話番号を教えてくれた。

 美保子さんと店の後ろ側のレストランに行って遅い昼食を取った。今日はもともとタローを見舞って、オズギュル先生に残りのお金を払ってくる予定だった。

 3時半頃美保子さんと別れ、タクシーと市バスを乗り継いでタローのところに行って術後のレントゲンを見せて欲しいと言うと、暴れるので撮っていない、と言う。

 私が主張して撮って貰ったところ、骨を繋ぐくさびは短すぎて全然利いているとも思えず、タローの関節にはもっと大きな剥離が生じていた。先生は明日、傷口を再度開いてやり直すことを約束した。


 夕方から雨が小ぶりになってきた。帰宅して外猫達の餌を配り終わったところに、ビラルさんから電話がかかってきた。そして私は、やっと池畑さん夫妻と話をすることが出来たのだった。お父さんもお母さんも感無量の様子で、私は日曜日の朝、夫妻が最後に宿泊するホテルに訪ね、朝食を一緒に取りながら話をしましょう、と約束した。

 かくてオッフェンバッハの「天国と地獄」のように、チャンチャンチャカチャカと忙しく飛び回ったが、結果良ければすべてよし、の言葉通り、本当に本当に、いろいろな方々の協力でここまでこぎつけることが出来、改めて胸を熱くしたのだった。

 ビラルさんにお礼を言って、日曜日の自由行動の時伺います、と知らせた。それからまたT子さんに、美保子さんに、そしてリカコさんにはメッセージを書いて首尾は上々であることを知らせた。すると驚いたことに、メッセージにちゃんと返事が返って来て、彼女も眠らずに私の報告を待っていてくれたようである。

 あともう一つ、不思議と言えば不思議なのは、2,3日前から猫達が段ボール箱を爪で切り裂いて、中から小冊子が1冊はみ出してきたが、それは写真のDPE店がサービスにくれる薄いアルバムで、さきほどこのはみ出た1冊を何気なく手に取ってみると、それには私が2001年の5月、日本に帰ってあちこちの友人を訪ねたときの写真が十数枚入っており、その中に怜君のお母さんとのツーショットもあったのだった。

 もう12~3年、開いたこともなく、どこに入れたのか覚えてもいなかった写真帳が、突然どうして、と私は驚いた。これも猫の恩返しだろうか。


 その池畑さん夫妻とは、いよいよ、日曜の朝を待つばかり。でもその前に用事がいっぱいあって、いつものようにちょっと慌ただしい私の近況である。













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Last updated  2014年03月13日 16時04分23秒
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