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Jun 22, 2005
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自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

著者:佐藤幹夫氏主催の編集工房・樹が陣営


面白いか、と聞かれれば「考えさせられる本」というところか。
裁判の場面について頁数が多く、筋読みしたかったわたしには細か過ぎて読みにくい印象も強い。半読み物、半資料のような書籍で、発達障害に関係する福祉・教育関係者には一読を勧める。

この本で、たくさんのことを知った。
犯罪加害者が障害者だと、障害者の人権に配慮してあまり報道されないこと。
普通中学を卒業したあと高等養護学校へ進学する人たちがいること。
高等養護学校を卒業し社会へ出た若者が、就労先などの実社会で「養護学校出身」であるがゆえに蔑まれたりすること、また、卒業後に連絡つかずで所在不明になる人が少なくないこと。
共生舎のような組織や活動があること。
・・・わたしが、こういう社会について何も知らないということ。

レッサーパンダ帽男のY・Mは札幌市内の公立中学校を卒業後普通高校へは行かず、高等養護学校へ進学している。彼には放浪癖がある。彼を支えて見守る力が、彼の家庭にはなかった。どこで何をしていても、反社会的な行為があっても彼を諌めてくれる人はいなかった。

この本は、Y・Mが逮捕されてから裁かれるまでの様々な手続きが、自閉症者に対する配慮を欠いていたことについて書かれているが、「司法」の領域に限らず「行政・教育・福祉」に対しても、その責任を問い直すことを求めている。

性的な情動を満たすために通りすがりの女性をナイフで脅すというレベルの理性と社会性しか身に付けていていなかったY・Mが、保護監察的な援助を受けずに生活していた。
なぜこんな事件が起きたのか、もう2度と同じような事件が起きてほしくない、そう考えるとき、Y・Mを社会から孤立させたまま何もできなかったのはいったいなぜなのかを問わずにはいられない。
障害者手帳が交付されていても役に立つことはなく、卒業後に社会生活がうまく行かなくても、福祉の手は行き届かなかった。

Y・Mが異常な人格で、この事件が特異なものであるということであれば、この本は書かれなかっただろう。Y・Mは氷山の一角なのだ。次のY・Mが生まれてしまう可能性がある、だから著者は警鐘を鳴らしている。

被害者の叔父は犯人のY・Mを「地雷」と表現する。
Mちゃんは地雷を踏んでしまったんだと私は思う。これは事故ではないし、まして運命でもないし、運命だったとも思いたくない。地雷さえそこになければ防げたことだった。私はそう思っている。

私は、障害をもつ人たち全員が地雷だなんて言っているのではない。Mちゃんが地雷を踏んでしまった。Mちゃんの踏んだのが地雷だった、そう言っている。地雷を世の中に戻せば、必ず誰かがそれを踏んでしまう。犯人は前科があって、刑務所に何回か入っていた。そういう傾向のあった人間を、なんでそのまま戻したのか。行政と司法の責任だと思う。

学校時代から家を出て、ふらふらとあちこち行っていたという。なんでそのままにしておいたのか。なんで目を光らせて、きちんと対応しなかったのか。学校を出たあと、一人で出歩けない施設におくなり、なんで一度もそうしたことをしなかったのか。これは教育と福祉の責任でもある。だから行政なり福祉なりがきちんと対応していれば、間違いなく防げた


著者の佐藤氏は「学校と福祉、なぜなにもできなかったか」という節を書いている。そこに出てくる共生舎の岩淵さんのお話。

「他の施設や作業所で面倒を見切れなくなった人間がうちに来る。口じゃなくて、手を動かせ。他の作業所ではそう教える。学校もそうだ。しかしうちはそうじゃない。どれだけ口を動かすか、だ。
どれだけ新聞を読んで、テレビのニュースを見て中身を理解させ、どれだけ世の中の出来事をわかってもらうか。世の中との折り合いというのは、そこからしかつかない。単純作業がこの人たちは得意だ、飽きずにやる、と他の施設の職員は言う。ほんとうにそうか。そんな人間がいるか」


→共生舎で働く横井寿之さんの「K@t@ruBelog(かたるべログ)」はこちら。

共生舎のような活動を知り、自閉症裁判のような本を読むと、知らなかった頃と同じ自分ではいられなくなる。

本を読んだ頃、学校では年度の変わり目だった。
娘は小学校6年生。思春期のはじまり、そして「将来を考える時期」でもある。品川は学校を選べ、都立の中高一貫校も増え、ますます選択肢は広がっている。子どもの学力に関する報道も多く「ウチの子が元気で楽しく学校に行っていればOK」的な親は少なくなった。
都立中高一貫校の説明会では「卒業後は留学するお子様のための選択コースがございます」といった私立並みの品揃えが披露される。

もちろん親としてそうした情報集めはする。
でも心のどこかに「一流大学へ入る」とか「留学する」とか「勝ち組になる」とか、そういう強く明るい面ばかりを見ながら子どもの進路を考えられなくなっている自分がいる。

社会にはいろんな人が住んでいる。
Y・Mのような「つい犯罪を繰り返しがちな障害者」を、世の中から隔離して税金で養うのか、犯罪を繰り返さないで済むような援助のしくみを税金で構築するのか、また援助しても繰り返しそうな場合の判断はどうするのか。娘には、そういうことを「自分の住む社会のことだから、関係ないことではない」と感じられる人になってほしい。

Y・Mは裁かれるべきだと思う。
しかしY・Mだけが裁かれて終わりでいいとは思えない。
行政・司法・教育・福祉が、この事件と裁判を受け、より良く変わることを祈る。





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最終更新日  Jun 22, 2005 11:34:26 AM
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