カテゴリ:書籍・映画・音楽等
面白いか、と聞かれれば「考えさせられる本」というところか。 裁判の場面について頁数が多く、筋読みしたかったわたしには細か過ぎて読みにくい印象も強い。半読み物、半資料のような書籍で、発達障害に関係する福祉・教育関係者には一読を勧める。 この本で、たくさんのことを知った。 犯罪加害者が障害者だと、障害者の人権に配慮してあまり報道されないこと。 普通中学を卒業したあと高等養護学校へ進学する人たちがいること。 高等養護学校を卒業し社会へ出た若者が、就労先などの実社会で「養護学校出身」であるがゆえに蔑まれたりすること、また、卒業後に連絡つかずで所在不明になる人が少なくないこと。 共生舎のような組織や活動があること。 ・・・わたしが、こういう社会について何も知らないということ。 レッサーパンダ帽男のY・Mは札幌市内の公立中学校を卒業後普通高校へは行かず、高等養護学校へ進学している。彼には放浪癖がある。彼を支えて見守る力が、彼の家庭にはなかった。どこで何をしていても、反社会的な行為があっても彼を諌めてくれる人はいなかった。 この本は、Y・Mが逮捕されてから裁かれるまでの様々な手続きが、自閉症者に対する配慮を欠いていたことについて書かれているが、「司法」の領域に限らず「行政・教育・福祉」に対しても、その責任を問い直すことを求めている。 性的な情動を満たすために通りすがりの女性をナイフで脅すというレベルの理性と社会性しか身に付けていていなかったY・Mが、保護監察的な援助を受けずに生活していた。 なぜこんな事件が起きたのか、もう2度と同じような事件が起きてほしくない、そう考えるとき、Y・Mを社会から孤立させたまま何もできなかったのはいったいなぜなのかを問わずにはいられない。 障害者手帳が交付されていても役に立つことはなく、卒業後に社会生活がうまく行かなくても、福祉の手は行き届かなかった。 Y・Mが異常な人格で、この事件が特異なものであるということであれば、この本は書かれなかっただろう。Y・Mは氷山の一角なのだ。次のY・Mが生まれてしまう可能性がある、だから著者は警鐘を鳴らしている。 被害者の叔父は犯人のY・Mを「地雷」と表現する。
著者の佐藤氏は「学校と福祉、なぜなにもできなかったか」という節を書いている。そこに出てくる共生舎の岩淵さんのお話。
→共生舎で働く横井寿之さんの「K@t@ruBelog(かたるべログ)」はこちら。 共生舎のような活動を知り、自閉症裁判のような本を読むと、知らなかった頃と同じ自分ではいられなくなる。 本を読んだ頃、学校では年度の変わり目だった。 娘は小学校6年生。思春期のはじまり、そして「将来を考える時期」でもある。品川は学校を選べ、都立の中高一貫校も増え、ますます選択肢は広がっている。子どもの学力に関する報道も多く「ウチの子が元気で楽しく学校に行っていればOK」的な親は少なくなった。 都立中高一貫校の説明会では「卒業後は留学するお子様のための選択コースがございます」といった私立並みの品揃えが披露される。 もちろん親としてそうした情報集めはする。 でも心のどこかに「一流大学へ入る」とか「留学する」とか「勝ち組になる」とか、そういう強く明るい面ばかりを見ながら子どもの進路を考えられなくなっている自分がいる。 社会にはいろんな人が住んでいる。 Y・Mのような「つい犯罪を繰り返しがちな障害者」を、世の中から隔離して税金で養うのか、犯罪を繰り返さないで済むような援助のしくみを税金で構築するのか、また援助しても繰り返しそうな場合の判断はどうするのか。娘には、そういうことを「自分の住む社会のことだから、関係ないことではない」と感じられる人になってほしい。 Y・Mは裁かれるべきだと思う。 しかしY・Mだけが裁かれて終わりでいいとは思えない。 行政・司法・教育・福祉が、この事件と裁判を受け、より良く変わることを祈る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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難しい問題ですね。レッサーパンダ男が障害を持っていた(どのみち常軌を逸したと思われる犯罪者は何か障害を持っていることが多々あるのでしょうが)
とは知りませんでした。 でも今は重篤な犯罪を犯した場合「心神喪失」「親からの暴力」「学生時代のいじめ」・・。 いろいろ理由を挙げ罪を逃れようとしますが被害者のほうは、「殺され損」。 少し話は変わりますがイタリアでは性犯罪者に「去勢」も考えているとか。 加害者の人権などいろいろ難しいところもあるでしょうが、そろそろ日本も加害者よりも被害者の人権をもっと考える方向に行かなくては、と思います。 文が支離滅裂でごめんなさい。 うまくまとまんなかった・・。 (Jun 22, 2005 05:13:34 PM)
みえぽん♪さん、こんにちは。
うちは子どもが女の子なので、やっぱり「地雷を踏む」というのは恐いと思いました。表現方法としてはずいぶんな言葉だという部分もあるのですが、親族としての実感はこうなんだって、強く訴えてくるものがありました。 最近は福祉ってナンだろうと、つくづく考えてしまうことがあります。 (Jun 23, 2005 05:38:43 PM) |
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