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カテゴリ:鎌倉だより
鎌倉宮から瑞泉寺にむかう途中、左手にテニスコートがみえてきます。 その先の分かれ道を、右にまがれば瑞泉寺、左にまがると、最近、鎌倉随一の紅葉として紹介されるようになった獅子舞へ向かう道となります。 その獅子舞に向かう道の左手に、柵に囲まれた広い空き地があります。 ススキの隠れた名所として知られ、この日も、冬の陽射しを浴びて、銀色の穂が輝いていました。 永福寺跡 撮影 12月16日14時30分 この場所を訪れる観光客はほとんどいませんが、ここには、源頼朝が中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して建立した「永福寺」という大きなお寺がありました。 永福寺と書いて、「ようふくじ」と読みます。 永福寺は、奥州攻めで亡くなった義経や泰衡をはじめ「数万の怨霊」を鎮めるための鎮魂の寺として建立されました。 さらにそこには、全国の御家人を動員して実施された奥州攻めが完了し、頼朝の政権が固まったことを天下に示す、政治的な狙いも込められていました。 発掘調査によると、本堂にあたる「二階堂」(南北19.8×東西18メートル)を中心に、両脇に阿弥陀堂と薬師堂があり、二階堂と廊でつながっていました。 ちょうど、宇治にある平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)のような姿をしていたのです。 さらに北側にも建物があったことがわかっています。 このほか、頼家の時代のことですが、多宝塔も建立されました。 また、二階堂の前には、南北に長い大きな池もつくられ、橋や釣殿も設けられていました。 その庭は、平泉の毛越寺(もうつうじ)にまさる浄土庭園だったようです。 このように永福寺は、鎌倉を代表する壮大な寺院でした。 その寺格も、鶴岡八幡宮につぐ高さを誇っていました。 いまこのあたりを「二階堂」と呼びますが、この地名も、永福寺が平泉の二階大堂を模し、「二階堂」と呼ばれていたことに由来します。 また、三堂(みつどう)という地名も残りますが、これも永福寺が三つのお堂から成り立っていたことに由来しています。 頼朝は、このほかにも、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)というお寺を建てていますが、この永福寺と勝長寿院、そして鶴岡八幡宮を結ぶと、きれいな三角形ができあがります。 その三角形の中心に、頼朝の大倉御所、つまり鎌倉幕府がすっぽりとおさまります。 頼朝は、鶴岡八幡宮と、勝長寿院、そして永福寺という三つの寺社によって、幕府を守護させようと考えていたようです。 永福寺は、室町時代までは存続していたようですが、15世紀後半には廃絶し、秀吉の時代には、その存在を確認できません。 しかし発掘調査によって、かつての姿がよみがえり、近い将来、史跡公園として公開されることが決まっています。 なかなか事業が進みませんでしたが、来年からようやく着工にはいるようです。 そうなると、ススキが一面に広がるこの景色は、来年からは、もう見られなくなるかもしれません。 かたすみには、ひっそりと紅葉も色づいていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 18, 2005 01:11:43 PM
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