体罰
最近お邪魔させてもらっているブログでちょっと話題が出たので。セクハラと同じで、体罰も、人によって「ここから」と感じる境界線が違うと思うのです。体罰を受けた本人が苦痛と感じたらそれは体罰。そうとらえている人が多いのかな?と、最近テレビでよくやってる討論なんかを見て思いますが・・・保護者の中には「子どもに手を出したら体罰」と思ってらっしゃる方も多いようで、たとえば、極端な話、「ツッコミ」のようにポンとやっただけでも、「体罰!!」と騒がれかねないという世の中になっているようです。和気藹々とした雰囲気の中で、ポンと軽く叩かれて、「先生に叩かれた!!」と騒ぐお子さん・・・いるのかな・・・?楽しく過ごしていて、本人も楽しいと感じて、それを家に帰って伝えたくて、おうちで、「今日先生がポンって叩いてね」と、ツッコミの様子を説明しようとして、保護者が「先生がうちの子を叩いた!?」って思う可能性だってありますよねぇ。あとは、物理的に触れなくても、強い口調で注意するだけでも怒鳴り込まれるケースもあるとか?極端な場合だと訴えられかねない・・・だから、無難に過ごすには、先生たちはやさし~く接するしかない。「子どもの権利」「子どもの人権」が前面に出されてますが、それはとっても大切だと思いますが、「教師の人権」はどこへ?と思うことも。私が小さい頃、親は先生に不満があっても、子どもの前では言いませんでした。子どもが先生をバカにしたようなことを言うと、怒られました。「先生は目上の人」で、目上の人をバカにしてはいけない、と。そういう教えをしている家庭が減ってきているような。むしろ、子どもの前で平気で先生の悪口を言う。それを子どもはしっかりきいているから、先生にそれを言い、バカにする。先生に暴力をふるったりして、それを先生が止めると「体罰」と言われる。保護者全員がそうとは言いません。一部だけだと思います。うちの親・・・私が小学生のときのある担任が不満だったようです。私も好きじゃありませんでした。最近になって、「あの先生さー・・・」という話をしますが、親もその先生のことを好きじゃなかったというのを最近はじめて知りました。お母さん同士でも色々話していたようですが、知りませんでした。まぁ、私がその先生にやらかしていた悪事も母は知らなかったようですが・・・(^^ゞ(嫌いだったので、悪さばっかりして激怒させてました・・・)もし、そのとき母が私の前でその先生への不満を言っていたら、きっと私は悪さをして怒られても「お母さんだって○○って言ってたよ!」と言ったと思います。親が言っていたら言ってもいいんだって思います。たとえ小さい子でも、けっこう親の話ってきいています。私がそうでしたから(^^ゞちょっと離れたところで遊んでいても大人同士の話をきいていて、「ねーねー、○○って△△なの?」と入って行き・・・「大人の話に入らないの!」と怒られてました・・・「どうせ子どもだからわかんないだろうし」ってのは思わないほうがいいです。子どもはわかってるんです~~~「どうせ子どもだから・・・」っていう考えのほうが、子どもをバカにしていると思います。「子どもを大切にする」ってどういうことか、私なりに考えてみました。叩いたりぶったり、怒鳴りつけたりすることなく、大切に育てること?高級な果物のように、傷つかないようにやさし~~~く・・・傷つくことを知らずに育った子どもがどんな大人になるかと考えると、恐ろしいです。自分自身が痛みを知らないと、他人の痛みなんてわかるはずもない。だからって、トラウマになるほどの体罰には絶対賛成できません。でも、「愛の鞭」は必要だと思います。とらえ方は人によってさまざまだと思いますが、私はこうとらえています。「体罰」・・・感情にまかせて、暴力(言葉でも物理的でも)をふるうこと「愛の鞭」・・・してはいけないことをしたときに、反省させるための手段うまく説明できないんですが・・・約束が守れなかったときにゲンコツ、というのがよくあると思いますがこれって、ゲンコツをもらう本人は、「自分が約束を守らなかったからだ」とわかってます。ゲンコツをもらいたくなければ、約束を守れば良いのです。どうしてそうされるのかがわかってされることは、「愛の鞭」だと思うんです。でも、体罰って、自分がどうして叩かれるのか、わからない。ただの、いじめですよね・・・しかも、大人が子どもをいじめる。最悪です。それは絶対に許せません。「怒る」と「叱る」の違いと同じじゃないかなって思います。「怒る」・・・感情・自分の機嫌の悪さにまかせる「叱る」・・・冷静に、教え諭すあくまで私のとらえ方なのですが・・・スミマセン、辞書ひいてません(爆)今年度、私の受け持ち学年では、「怒るのではなく叱るように心がけよう」という話し合いを持ちました。学級経営についての話し合いの中で出てきた言葉なんですが。人間なので、つい感情的になってしまうこともあります。でも、できるだけ冷静に、かつ毅然とした態度で、いけないことはいけないと言いたい。それこそがその子のためだと思うから。カッとなって怒っても、「あの先生すぐ怒る。こわい」という印象が強く残るだけ。でも、いけないことはいけないと教えないと、大人になってその子が損をする。だから、注意はしなきゃいけないんです。うちの学校の子どもたちは、たいていの子どもが言われなくてもわかっていることすらわからなかったりします。だから、細かく言葉で教えるように心がけているんですが、「えっ、こんなことまで!?」と思わされることもたくさん。毎日子どもに勉強させてもらっています。あとは、前にテレビで見たんですが、最近の子どもたちは豊かな人間関係を築けずに育っている、と。たとえば、昔は近所のおじちゃん、おばちゃんまでもが成長にかかわっていた。今は、核家族化が進み、近所づきあいも少なくなり、子どもが直接かかわる大人は家族と先生だけ。そして親は共働きが多い。大人から受ける刺激が、良くも悪くも少ないんですねぇ・・・それを考えると私も現代っ子だなと感じるのですが。うちの母は、叔父や叔母に囲まれて育ちました。周りからいろんな人間に口うるさく言われるのはイヤだったから、自分の子ども(つまり私たち)は恵まれていると思っています。でも、ひとりで口うるさいです(笑)自分の育った環境に比べたら私ひとりが言うぐらい・・・ってのもあるんでしょうか。それとも、母なりに口うるさく言われて育ったことで何か感じたのでしょうか。うちの母もけっこう感情的で、激怒することはありました。かなり。でも、私は自分が悪いから、自分が怒らせているんだってわかってました。だから、ぶたれて泣いても、理不尽と思ったことはありません。そのときは「くそぅ・・・」って思うんだけど(^^ゞまぁ、それでも懲りない子どもではありましたねぇ・・・なんだか思い出話みたいになってきましたが、とにかく「体罰」の定義をはっきりさせるべきではないか、と私は思うのです。それが可能かどうかってのは別として・・・はっきり言って、「セクハラ」の定義にも疑問ですから・・・ただ、理不尽な「体罰」によってトラウマを抱えて育つ子がいるのも事実。大事に温室で育てられて、人を傷つけることをなんとも思わない子がいるのも事実。どちらも不幸だと思います。体罰が良いか悪いか、ではなく、この子の将来のためにはどういった指導をしていけば良いのか、ということを私は考えていきたいと思います。まだまだ教員2年生。ベテランの先生方から見れば「理想論」って思われることも多いと思います。先日も先輩と話していて、「それはまだまだ何年も経験せんとわからんことよ」と言われたことがあります。でも、子どもに最善の将来を、という気持ちは忘れたくないなぁと思います。今は、先輩方の知恵や経験を借りて指導にあたる日々ですが、何十年か先、後輩たちにそれを還元できればなぁと・・・でも、今はとにかく目先のこと、ですなぁ・・・