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■久々なので、導入部も書きます~■
30分番組です。このブログのスペースの関係で、1回の放送を、
前後編に分けて、紹介される賛美歌は、また別にしてます。
栃木テレビで毎週朝 8:05から放送されている「ゴスペルジェネレーション」。
その2009/08/08の放送内容です。
これより前の回はは、ごく一部しか書けませんでした。いつか、残りを書きたいです。
他の日にも、出来てないのがあり、書きたいです。
先週は、家族が夏休みで、いつもと違う土曜日で、観そびれました。
以下は、教会からのインフォメーション以外全部です。
■いつものナレーション~安食牧師の挨拶■
私の目には
あなたは
高価で尊い
私はあなたを
愛している。
Gospel Generation(タイトル文字)
「多様性における一致」エペソ人への手紙 第4章7節~16節
メッセンジャー 安食弘幸 牧師
「今日もゴスペルジェネレーションをご覧くださりありがとうございます」
以下、緑色の文字は安食牧師のお話で、小見出しは私がつけています。
太字はテロップが出たものです。
■ロバート・ローゼンタール博士の2つの実験■
アメリカのハーバード大学のロバート・ローゼンタール博士が
興味深い実験をしています。
学生を3つのグループに分けて、それぞれに、専用のネズミの世話をさせたそうです。
最初のグループには、こう言いました。
「君達に預けるのは、大変優秀なネズミ達である。そのことを心して世話をしてくれ」
2番目のグループには、
「君達に預けるネズミは平均的な能力のネズミ達である。そのつもりで世話をしてくれ」
3番目のグループの学生には、
「君達に預けるのは、非常に愚かなネズミ達のグループである。そのつもりで世話をしてくれ」
そして6週間後、厳密な科学的条件の下で、実験が行われました。
その実験の内容は、
迷路を作り、入り口からネズミを入れて、
出口のチーズに辿り着くのにどのくらい時間がかかるかという実験です。
優秀なネズミ達のグループは、素早く出口のチーズに辿り着きます。
平均的なネズミのグループは、平均的な時間がかかり、出口に辿り着いて行きます。
ところが、この愚かなネズミ達のグループは、1匹も出口に辿り着く事が出来ませんでした。
1匹だけ辿り着いたのですが、たまたま偶然的に起こったことでした。
実は、この実験には裏があったのです。
ネズミ達にははじめから能力の格差はありませんでした。
ただ学生達にそう思い込ませただけなのです。
では、何故、このような格差が生まれたのでしょうか。
それは、ネズミ達が学生達にどう扱われたかという事の違いです。
優秀なネズミを預かったと思った学生達は、そういう思いを込めて一生懸命世話をしたのです。
愚かなネズミを預かったと思ったグループは、それなりの扱いをしたのです。
ネズミ達は、自分達がどう扱われているのかという事を肌で感じたのです。
それが、この実験の結果となって現れたのです。
この実験は、ここで終わりません。更にもう1段階進んだのです。
■文字数がオーバー■
なので、もう1つの実験について、ここではカットです。
その部分と、私の感想とを、
次の、賛美歌について書いてる方に移します。
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■どう扱われるか■
つまり、人は、どういう風に扱われるかによって、その能力を引き出されたり、
あるいは能力が眠ったままでいるということになってしまうということです。
この事は、多くの場合、真実です。
■自分自身にも当てはまる■
そしてこれは、自分自身に対しても、当てはまる事なのです。
自分自身を自分でどう評価するのか。
ある人は、自分なんか愚かだ、自分なんか生きていても仕方が無いと評価するかもしれません。
■パウロの言葉■
しかし、今日の箇所で、パウロは、こう言います。
「どんな人も神の御前に優れている大切な存在なのだ。
非常に1人1人がユニークで、特異性に満ちて、個性に溢れている存在なのだ」
今日はそいう事を、心に留めながら、聖書の言葉に心を向けてみたいと思います。
今日も最初に賛美歌を1曲お送りします。お聴きください。
賛美歌については、別日記に書きます。
■調和を持って生きること■
パウロは、
教会の中における、それぞれの立場にある人々の役割について教えています。
まず最初は、すべての信徒の役割について述べています。
パウロはこの手紙の中で繰り返して、
一致、あるいは、ひとつになる、ということを強調しています。
一致するということは、皆が同じようになることではありません。
1人1人が、違った個性を持っている、それがお互いに違いを認めて、
協調し、調和を持って生きること、これが、一致ということです。
その違いは何から来るのか、それは、
神が1人1人に与えてくださった賜物によるものだと、パウロは言います。
この賜物の違いについてよく理解できる1つのユーモラスな例話があります。
■1人1人の賜物■
数名の人が中華料理のレストランに行きました。
するとウエイトレスが食事を運んで来る途中、
椅子に躓いて持っているお皿を床にひっくり返してしまいました。
その時、それを見ていた1人1人の反応が違っていたのです。
ある人は、
「大丈夫ですか、怪我は無かったですか」とウエイトレスに優しく声をかけます。
この人は慈善の賜物を持っている人でしょう。
別の人は、
すぐに素早く片付けるために立ち上がります。
そして手早く掃除をします。こういう人は奉仕の賜物を持っているのです。
ある人は、
ウエイトレスの代わりに割ったお皿の代金を弁償しますと言って
財布からお金を取り出します。この人は、与える賜物を持った人です。
また別の人は、
「そもそも躓いたのは椅子の並べ方に問題がある。こういう風にすると
こういう事件は起こりません」とマネージャーを呼んで椅子の並べ方を説明する。
こういう人は、教える賜物があるのでしょう。
また、ある人は言います。
「こういう事が起こるんではないかと、この店に入った
瞬間なんとなく予感がしたんですよ」これは、予言の賜物を持っている人かもしれません。
そして更に最後の1人は、
皆が協力して問題が解決できるように、1人1人を
指導していきます。こういう人は、指導の賜物を持った人だと思います。
このようにして、1人1人が与えられた賜物をフルに使う事によって、
1つの問題を解決していくことが出来る、
教会とは、まさにこのような所であると、パウロは言うのです。
■第1コリントの12章の11説と12節■
パウロは、第1コリントの12章6節と12節で、次のように述べています。
「さて、御霊の賜物には、色々の種類がありますが、御霊は、同じ御霊です。
奉仕には色々な種類がありますが、主は同じ主です。
働きには色々な種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
ですから、ちょうど体が1つでもそれに多くの部分があり、体の部分はたとえ多くあっても、
その全部が1つの体であるように、キリストも、それと同様なのです」
■リーダーの役割■
次にパウロは、リーダーの役割について述べています。
パウロは、すべてのクリスチャンが神からの賜物を与えられてる
ということを述べた後に、
使徒、預言者、伝道者、牧師、教師と呼ばれる人たちの
役割について述べています。
これらのリーダーを教会にお与えになったのは、キリストご自身です。
11節
「こうして、キリストご自身がお立てになったのです」そのとおりです。
では、これらのリーダーの役割とは何でしょう。
12節に書かれています。
「それは聖徒たちを整え、奉仕の働きをさせ、キリストの体を立て上げるためである」
と書かれています。
この「整える」という言葉は、「繕うとか修理をするとか、
あるいは、外れた関節を元に戻す」というような意味があります。
さらにパウロは続けます。
13節。
「ついに、私達が皆、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致と達し、
完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためです」
ここで安食牧師のバックに当てられているダ・ヴィンチの最後の晩餐のイエスがアップにおなる)
教会のリーダーとは、
スポーツチームの監督やコーチのように、
信徒達が神の国において、最高のプレイ、最高のパフォーマンスが
出来るように助けてあげる事、それが役割です。
■歴史の中で立派な教会が建ち■
キリスト教2,000年の歴史の中で、
1世紀2世紀の初代教会の中にあった多くの良き物が、
その歴史の中で失われてしまいました。
ある時期に、
教会は建物であるという考え方が広がり、中世において立派な教会が立ち並びました。
それは今日、観光の名所になっています。
しかし、教会は建物ではありません。
そして、立派な建物が建つと同時に、クリスチャン達の奉仕が徐々に、その
建物の中で行われる宗教儀式に参加することへと、意味を変えていってしまいました。
そして奉仕の責任が、
会衆から、聖職者と呼ばれるほんの一握りの人々に移されてしまったのです。
その結果、信徒たちは、会堂に来て、その儀式に参加する、あるいは、
説教を聴く、それだけになってしまいました。
それは、ちょうど、サッカーや野球を観に行った観客のような、
ただ座って見ている、眺めているだけ、という姿になってしまいました。
グラウンドでは、選手達が、体力と気力の限りを尽くして戦っています。
彼らには、この上なく休息が必要です。
一方観客は、ただ座って観てるだけです。彼らには運動が必要です。
私達は、キリストの体である教会が本来与えられている使命を全うするために、
もう1度この聖書が教える原則に立ち返らなければならないと思います。
私達が、新約聖書を注意深く学ぶ時に、大切なことが分かってきます。
初代教会が神のうちに躍動していた、その理由は、すべてのクリスチャン達が、
1人1人与えられた役割を十分に責任を持って担い、果たしていたということです。
そして、そこで神に用いられた人々は、宗教的な指導者ではなく、
羊飼い、猟師、収税人、兵士、政治家、医者、天幕作りの職人、あるいは、
キャリアウーマンと呼ばれる夫人達などが、新約聖書で活躍しているのです。
後半の部分で更に学んでみたいと思います。
後半の前に、この日2つ目の賛美歌。
「2009/08/08ゴスペルジェネレーション-前編」は、多分明日投稿です。
■今日の別日記■
この日の放送で歌われた賛美歌、2曲は、別日記です。
「2009/08/08の賛美歌2つ」
「家族の夏休み、ブログ休んだ~」
「やっとブログに返って来たけど」
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最終更新日
2009年08月20日 19時30分19秒
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プロフィール
まりえf
心身の健康、本の事、ナチュラル・ハイジーンやベジタリアンの事等を書いています。
2010/10/05からクリスチャンです。その前から賛美ブログも書いてます。
アフィリエイトで自分が使って良かったものや好きな物のご紹介もしています。
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