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カテゴリ:矢延平六
「源英」 松平頼重について 松平頼重公、墓所 松平頼重(Wikipedia) 水戸徳川家初代徳川頼房の長男に生まれる。 懐妊した母・久昌院は、父・頼房に堕胎を命じられたが、三木之次は頼房の准母英勝院に相談の上、江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させ、頼房に隠したまま江戸で育てられた。 光圀懐妊時にはその事実が発覚しないよう、京に送られ大納言滋野井季吉に預けられて養育される。 天龍寺慈済院の洞叔寿仙のもとで学問を学ぶ。 その後1632年に、水戸からの招きで藩邸に入るも1637年まで、父頼房に御目見できなかった。 この間、水戸藩の嗣子には同母弟の徳川光圀が決定していた。 翌1638年に右京大夫を名乗り将軍徳川家光に御目見した。 このときの扱いは、光圀に次ぐ次男の扱いであった。 翌年常陸下館5万石を与えられた。 その後1642年、生駒騒動で改易となり天領となった讃岐高松に12万石で入封される。 将軍名代として後水尾上皇に拝謁したり、交通の要所の讃岐を与えられるなど、次男扱いとされていても、長男に相応しい待遇を得ている。 後に実子の徳川綱方、徳川綱條が光圀の養子となり、水戸藩の家督は綱條が継ぐ。 一方、頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に家督を譲って隠居した。元禄8年(1695年)に没した。 1622年(元和8年) :生誕 元和8年7月1日(1622年8月7日) 1638年(寛永15年):将軍家初見 1639年(寛永16年):常陸下館5万石 1642年(寛永19年):讃岐高松12万石転封(5月28日) 1673年(延宝元年):隠居(2月19日)、同月28日、出家。源英と号する。 1695年(元禄8年) :卒、享年74。元禄8年4月12日(1695年5月24日) 龍雲院殿雄蓮社大誉孤峯源英大居士尊儀 驚いた事に、私が、法然寺の松平家墓所を訪ねた7月1日は、松平頼重公の誕生日でした。 そして、さらに驚く事には、その誕生日は、西暦で数えると、8月7日。 その日は、矢延平六のリサーチプロジェクトの本番です。 今、「源英公逸事」の完結原稿を、ふるさと研究会の会報に提出し、出版を待っています。 これは、何かのご縁でしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.07.08 10:57:14
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