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カテゴリ:彫刻について
日本近代具象彫刻の黎明1 明治時代の彫刻
推古朝の頃から、千三百年間、あるいは大陸を直写し、あるいは国風を発揮し、宋元の影響を受ける頃からは、次第に仏教彫刻の衰退を来たし、封建的な徳川の治政下にあっては、彫刻は、もはやほとんど芸術として、これを談ずることを許さないまでに下向した。
明治維新は、王政復古と共に、徳川時代の鎖国の関門を一時に開放した。 そして、社会の各方面に、過去の陋習(ろうしゅう)を打破して、世界の先進国と歩調を共にする新改革案が断行された。 実に、明治元年(1868年)から45年(1912年)に至る明治時代は、我が国の歴史において特筆大書すべき輝かしい時代となった。 国運、隆盛と民族の自覚、それはまた美術史、彫刻史においても、前古類のない大時代を展開したのである。
明治初期の彫刻 明治初期の十余年間は、欧米の文物が洪水のように流れ込み、今までの職人としての仏師、あるいは宮彫の彫刻大工等は、次第に過去の生活を清算して、新時代を理解しなければならなくなった過渡期である。 そしてその時に、廃仏毀釈が行われて、奈良、京都、その他各地の諸寺院では、秘蔵の絵画や彫刻が少なからず破壊されたのである。 どうすれば新時代が開拓出来るか、そればかりが当時の人のもっとも苦慮した問題であった。 目的は文明開化である。 そして明治九年、工部大学校内に美術学校が設立され、教師はイタリアから招へいされた。 その時に彫刻の教師として来たのが、ヴィンチェント・ラグーザであった。 高村光雲氏の話によれば、当時在来の彫刻家としての活路は横浜の開港によって、来朝の欧米人が好奇心から我が国の美術を買うようになり、それがまた貿易品として取り扱われるようになったことである。 金工の方では、目貫師(めぬきし)が工芸的な小彫刻を種々組み合わせて、花瓶の上に嵌入(かんにゅう)したり、根付師が、従来の根付よりやや大形の象牙彫刻を制作したりした。 また政府の方でも、美術、工芸の発達奨励のために、博覧会を開催するのが最も得策であるとなし、明治十年、東京において、第一回の内国勧業博覧会が開催された。 しかし、職人育ちの作家には、一向博覧会の主旨がわからないので、政府は明治九年ごろから勧誘員を作って勧誘し、結局作家に補助金を出すことにして出品を得たが、その時、高村東雲(たかむらとううん)、今戸弁司(いまどべんじ[戸沢弁司])、伊豆長八(いずのちょうはち)、松本喜三郎(まつもとさぶろう)、安本亀八(やすもとかめはち)、野村源光(のむらげんこう)らが出品した。
当時の彫刻は、前述のように、たいてい貿易品に親しんでいた作家であるから、出品も俗なもので、貿易品をのままの極めて卑近なものが多かった。 その中で根付師のやった寸の延びた象牙彫刻は、明治以降の新美術として賞讃された。 それからは、各種専門の彫刻師も皆この象牙彫刻をやるようになり、一時彫刻界を風靡した。 石川光明(いしかわこうめい)島村俊明(しまむらしゅんめい)という人達も出るようになり、四年後の明治十四年(1881)の第二回内国勧業博覧会の時には、美術館中が真っ白になったくらい、この象牙彫りの隆盛を見た。 その時、石川公明は、象牙彫りを以て妙技二等賞を獲た。 この頃また奈良の森川杜園(もりかわとえん、明治二十七年(1894)没、七十九歳)が、一刀木彫彩色の彫刻であらわれた。
明治中期の彫刻
普通明治十四、五年頃(1881,2)から、二十八、九年頃(1895,6)までを、明治の中期とするのであるが、この時代の前半は極端な欧化時代であって、それに対抗して起こった国粋保存の運動は、東京美術学校の設立を分岐として、後半の時代を支配するに至るのである。 明治の初期において、日本とイタリアとは、美術のことで深く結ばれた。 それは、むしろイタリアが美術方面の仕事で、関係を結んで来たというべきであるかもしれない。 とにかく、明治九年、工部大学校内に美術学校が開設され、彫刻の技師としてラグーザが招へいされたが、ここに学んだ洋風彫刻家として、大熊氏広(おおくまうじひろ)、藤田文蔵(ふじたぶんぞう)、佐野昭(さのあきら)、菊地鋳太郎(きくちちゅうたろう)小倉惣二郎(おぐらそうじろう)の諸氏が卒業した。 当時の西洋心酔の気運に乗じて、それらの人々は勇ましく社会に乗り出し、大熊氏広は銅像の作者として、また藤田文蔵は、牛込廿騎町に彫刻専門の学校を創立し、佐野昭、菊地鋳太郎氏も、また文明開化時代の社会に活躍したのである。 ラグーザは、清原玉をめとり、数年の後に帰国したが、当時の作品は昭和七年ラグーザ氏より東京美術学校に寄贈して来た。 この主要な作品は左の通りである。 正義(石膏像)、小児のバッカス(大理石像)、黒田侯爵像(石膏像)、ラグーザ玉像(石膏像)、パレルモの女(石膏像)、祈り(石膏像)、露国某伯爵夫人(石膏像)、日本の大工(石膏像)、日本婦人(島田髷)(石膏像)、日本の俳優(石膏像)、娘(石膏像)、人像柱(未完成大理石像二体) しかしながら、廃仏毀釈の時代の後に、しだいに我が国が古美術の尊重すべきことを自覚するに至った。 それも、主として海外におけるこれが推重の結果であるが、この傾向を企業に活用したのが、明治十一年(1878)創始、明治十二年(1879)開設の龍池会(りゅうちかい)である。 最初の龍池会は、反欧化主義というよりも、むしろイタリア美術の傾向を帯びて、国産の美術工芸奨励の一運動であったと思う。 その反景としては、フランスが相当の力を及ぼしていたほうに考えられる。 また明治十三年(1880)には、内務省博物局において、第一回勧古美術会が開かれ、第二回からは、毎年龍池会からこれを開設することになった。 一般美術界がこういう状態であったから、彫刻に関する研究会も開かれるようになり、明治十四年(1881)には、彫刻競技会といって、作品の持ち寄り研究会が出来た。 また明治十五年(1882)二月開催の第三回勧古美術会には、かしこくも明治天皇が行幸あらせられ、石川公明の御前製作をみそなわせられ、製作者にはお菓子ならびに金一封を下賜せられた。 従来は町人であり、また職人に過ぎなかった彫刻師が、一躍この光栄を荷ったのであるから、一般社会も彫刻に対する態度が変わり、作家自身もまた自信をもって、製作に精進することなった。
当時の彫刻家としては、新しく高村東雲の門人、高村光雲(たかむらこううん)、竹内久一(たけうちきゅういち)、山田鬼斎(やまだきさい)らの諸家が現れた。 工部大学内の美術学校は、明治十五年(1882)に廃止され、彫刻競技会は、また来朝中のアーネスト・フェノロサを招へいして、時々批評会、講演会を開き、明治十八年(1885)には、ついに第一回の彫刻競技の展覧会を開くに至った。 そして明治二十年(1887)にさらに東京彫刻会として改称して、爾来今日に至るまで、毎年日本美術協会列品館において、その競技会を開催している。
龍池会一派の美術運動は、国粋保存の大旆(たいはい)を掲げて、多くの同志を糾合したが、それでも、その運動は極めて保守的であった。 この保守主義に対立して、明治十七年(1884)に開設された鑑画会一派は、進歩的国粋保存の運動を始めた。 その中心人物はフェノロサおよび岡倉覚三(おかくらかくぞう)である。 鑑画会は、明治十九年(1886)四月開催の絵画展覧会において認められ、程なくフェノロサ、岡倉覚三は、外遊中の浜尾新(はまおしん)と共に美術取り調べの命を受けて外遊し、遂に明治二十一年(1888)に東京美術学校が創立された。 美術学校の創立に際して、彫刻科も設置されたが、その教授に任ぜられた人は、高村光雲、石川光明、竹内久一らの我が国の伝統を伝えた木彫、象牙の大家である。 明治二十三年(1890)には、フランスパリ万国博覧会が開催され、石川公明作の蘆葉達磨(ろえいだるま)が銀賞となり、また同年の第三回内国勧業博覧会には、山田鬼斎の木彫大作、護良親王(もりながしんのう)馬上像が妙技二等賞、竹内久一もまた妙技二等賞を受け、高村光雲は、日本美術協会に於いて明治天皇の御前製作の光栄に浴したのである。 また明治二十六年(1893)には、シカゴ万国博覧会があり、諸家が競って力作を出品したが、この頃の作品として特筆すべきものに、竹内久一の伎芸天、高村光雲の猿、石川公明の白衣観音がある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.10.16 02:38:41
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