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神奈川近代文学館は、横浜の港の見える公園内にある。交通至便の場ではない。石川町の駅から元町通りを抜け、坂を上った先にある。この坂はビルの6階くらいの高さまで階段登りが必要である。イギリス庭園などがあり、今はバラの見ごろで、大仏次郎記念館の裏にある。 この文学館のバックヤード見学会があり、参加した。日頃は職員のみが入れる聖域である。展覧会や講演会などが行われる展示棟の地下から本館に入る。本館は霧笛橋の横に見られる建物で地下4階になっており、この地下が保存庫で本や雑誌が保管されている。本館は資料の閲覧などが出来るが、貸し出し等は行っていない。歴史的資料などは国会図書館と同様、マイクロフィルムでの閲覧になる。駒場の日本近代文学館とこの神奈川近代文学館で、近代文学関係の資料はほとんどが集められているそうだ。 建物の周囲は湿気予防のため溝がほられており、中で履物を健康サンダルに履き替える。万全の保存体制がとられている。中は迷路状態で、案内人がいなければ移動がむずかしい。まずは地下3階の雑誌室へ入った。電動書庫になっており、ボタンで巨大な書棚が動く。誌名は知っていても実物は見たことがない昔の雑誌、たとえば「白樺」や大正時代の写真誌、文芸同人誌などが収められている。これらは作家が亡くなった後、遺族の方の寄贈によるものということだ。国会図書館にもない貴重品もあるようだ。大きな雑誌では「中央公論」などは第1号からそろっている。「中央公論」の棚をみていくと、戦時中のものは冊子が非常に薄くなっている。紙の供給が少なくなり、雑誌も薄いものになったということがわかる。この本館は一般来場者というより、研究者向けのようだ。なんとなく「中央公論」を読みにいく、というのではなく、問題意識を持って調べるというような場所である。「中央公論」は読売新聞社に吸収され、これが編集方針にどう影響したかを調べる際に役立ちそうだ。論壇の崩壊はなぜ起こったか。岩波の「世界」はなぜ崩れないのか。相当骨がある人でないと立ち向かえないが、こんな論陣をはった本が世に出る事を期待して待つことにしよう。 迷路を動きまわり1階上に移動する。文学館は図書館の機能と博物館の機能が合わせもっている。夏目漱石の関連書には、漱石が日常使っていた日用品の写真が掲載されている場合がある。小さく「神奈川近代文学館蔵」と書かれているものを見かける。漱石の座つくえなどは常設展示されて、そちらで見る事ができる。地下2階にある作家の特別室へ案内された。棚の引き出しに入っていたのは漱石の落款である。漱石はこういうものが好きだったのだろう。30個くらい入っていた。中国へ行った時に石だけ買ってきて、専門家に掘らせていたようだ。その下の引き出しには漱石の原稿用紙を印刷した木版があった。B5の大きさの上部に飾りのついたものである。漱石は自前で原稿用紙を作っていた。中島敦の机があった。これは相当背丈が高い。椅子はなかった。中島は背の高い人だったのだろうか。 井上靖記念室は、6畳くらいのスペースだ。棚に囲まれ、中央のガラスケースには執筆原稿。棚はスクラップブックで満杯。一つの小説に3つくらいのスクラップブックを使っている。中味は見る事ができなかった。井上は取材して、その材料をスクラップブックに貼りつけ、小説を書いていたようだ。執筆姿勢が想像できる。尾崎一雄は小田原の神官の出身。小説の神様といわれた志賀直哉の本で埋め尽くされている。すべての志賀の本を集めている。神官らしく(小説の)神様の本を、ことごとく読んでいたようだ。尾崎が使っていた碁盤などもあった。これは300万円以上のものだそうで、プロ仕様だ。碁に相当のこだわりがあったことがわかる。 博物館や図書館のバックヤード見学会はときどき行われる。案内をみたら申し込むことをお勧めする。なかなか見られないお宝を拝むことができる。
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最終更新日
2014.06.01 13:49:24
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