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中高年の生涯学習

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2018.08.26
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​​昨年5月亡くなった花田春兆さんの著書に「幽鬼の精-上田秋成の作品と生涯」(こずえ刊、昭和60年)がある。秋成は「雨月物語」という怪奇小説を書いた江戸時代の小説家であるとほとんどの人は知っているであろう。「雨月物語」は高校の教科書に出ていたので、読んだことはあるけど、ほとんどの人にとって忘れられた小説家である。大学の日本文学科で近世文学を専攻した人でも、西鶴、芭蕉、近松はちょっと触れたけれど、上田秋成なんて、“かすりもしない”という存在ではなかろうか。タイトルの「幽鬼の精」も作者からすれば凝りに凝ったタイトルだが、一般読者からするとなんのことか分からない、恐ろしい印象しか残さないタイトルだ。
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​春兆さんは「障害者史シリーズ」で障がいをもつ偉人の生涯を長年追いかけていた。「富田木歩」、「村上鬼城」、「明石検校」、そしてこの流れの中に「上田秋成」が置かれている。いずれの人も埋もれた存在だが、掘り起こそうとすると非常な困難にぶつかる。残っている資料が少ない、市販されている本も限定されている。文学部をもつ大学図書館でさえ、上田秋成関連の史料は棚一段である。芭蕉などは8段の棚が6~7本あるのに比べると寂しいし、人気のない作家であることは明らかである。
​この忘れられた小説家「上田秋成」の実像を知れば知るほど、とてつもない人生を歩み、この人生から生み出された小説、作品の数々に魅了されてしまう。「文学とは何なのか」を体現しているような人物なのだ。どうしたら、この「上田秋成」という人物を知ってもらえるか。春兆さんは、工夫した。「拙(せつ)」という一人称を使い、一人語りの形式を使った。不思議と、この形式を使うと春兆さんは自分が「上田秋成」になってしまう感覚を味わった。「乗り移った」状態である。
​しかし、紹介する側は、この乗り移った状態では対象化して書くことができない。放送大学に「上田秋成の文学」という講座がある。担当は長島弘明東京大学教授である。これをレフレックス(反射)版に使うと「一人語り」の裏側が見えてくる。春兆さんの本の最終章「死後の褒貶」から見てゆくと、春兆さんの研究スタイル、どう秋成にアプローチしたかがわかる。同時に本ブログでは秋成が、どういう勉強をして自分の文学、人生を作っていったかを探っていきたい。
研究室は東京都港区の都立中央図書館の3階人文科学室。春兆さんは電動車いすを使う。自宅から緑濃い有栖川公園の中にある図書館へは10分、坂を上る。図書館入口に2段の階段があったがスロープを付けてもらった。この図書館には秋成関連の研究書がそろっていた。秋成研究家の丸山季夫氏の寄贈本が棚に並んでいた。秋成に興味を持つ人は非常に少なく、ほとんど手付かずの状態で本があり、静寂が保たれていた。一人の女子学生が秋成の本を読んでいたことがあった。好敵手が現れたと思い、筆談で言葉を交わしたが、3日目には来なくなった。9か月、この図書館に毎日通った。そしてこの本は、図書館の机で書き上げられた。

​口語訳本や全集、研究書を読み込む、なかでも「担大小心録」が秋成の本音を語っている本であることがわかると、この本にそって「一人語り」を構成すればいいと、目安をつけた。
冒頭、秋成の墓に詣でる所から話が始まる。京都・南禅寺近くの西福寺。墓は内庭の一隅に置かれていた。それと指さされなければわからない。まるで庭石のようだ。「上田無腸之墓」と彫られている。

文化6年(1809)6月26日に亡くなったが、西福寺の過去帳には法名の横に「大坂出生之人歌道之達人」という注記が書かれている。この「歌道之達人」とは秋成自身の認識であり、周囲の人の評価であったのだろう。小説家でも国学者でもなく、歌人だったのだ。これが秋成理解のカギになる。また西福寺には秋成の小さな座像も書籍の積まれた床の間に置かれていた。

​秋成は享保19年(1734)大阪に生まれた。実父はだれか分からず、実母は商人の松尾九兵衛富喜の娘でヲサキ。4歳の時堂島の紙油商の島屋に養子に出された。養父は上田茂助。ここには秋成にとって義理の姉になる子がいた。5歳の時、養母が亡くなり、秋成自身も重い痘瘡にかかり生死の間をさまよった。養父は大阪郊外の香具波志(かぐわし)神社に参詣し祈った。夢の中に神があらわれ「お前の子を思う愛情ゆえに、その子に六十八の齢を与えよう」と告げられたという。秋成は一命をとりとめたが、右手の中指と左手の人差し指が短くなるという後遺症が残った。この神秘的な話と手の障がいが作家秋成誕生の契機となった。
​​養父の茂助は再婚した。第二の養母は優しい人であった。家庭は申し分のない環境であったが、少年期、青年期の秋成は「浮浪子(のらもの)」と自分のことを書いている。遊びまわって家に寄り付かなかった。文字も読めなかった。いつまでも「浮浪子」であったわけではない。十代後半で出会ったのが俳諧である。当時の町人にとって俳諧は初歩的な教養であり、社交の道具だった。秋成にとってこれが文学への目覚めだった。文字を覚え、手に入る書籍をあさった。歌舞伎芝居に入れあげた。何かをやりだすと夢中になる性格だった。自分はまだ甘いと思ったのか、大阪町人の高等教育機関の懐徳堂へ通った。懐徳堂は儒学中心だったが、秋成は五井蘭洲(らんしゅう)という国学者に出会い、王朝古典を学んだ。京都に住む小島重家という歌人から和歌への目が開かれた。22歳の時義理の姉が恋愛のため家出、勘当された。島屋の跡継ぎとして強引に決められた。商人には不向きであるとわかっていたが、どうしようもない。
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​​33歳のとき処女小説「諸道聞耳世間狙(しょどうききみみせけんざる)」という浮世草紙を書いた。筆名は和訳太郎とした。大阪弁の「悪ガキ」という意味である。翌年「妾形気(めかけかたぎ)」を刊行。浮世草紙というのは庶民向けの大衆小説で、「世間狙」はドタバタ喜劇である。「妾形気」の翌年には「雨月物語」を脱稿している。こちらは浮世草紙ではなく、読本(よみほん)に分類されている。シリアスな時代怪談小説である。浮世草紙と読本、現在で言えば、日刊スポーツに掲載される大衆小説と朝日新聞の連載小説くらいの違いである。
こういう書き分けがどうして可能なのか。秋成文学の不可解さである。
​​
(以下、「その2」に続く)

                    花田春兆
​                    その人と作品展​​
                            日時:11月19日(月)~
                                       12月1日(土) まで開催
                            時間:am11時  ~  pm5時
                            場所:淑徳大学 東京キャンパス1号館
                                       東京都板橋区前野町6丁目36-4
                            アクセス
                                     東武東上線  [ときわ台]駅南口から
                                                      700m   徒歩約10分
                                     ※エレベーターは南口にあります 
                                  または 北口から赤羽駅西口行き
                                  バス「前野小学校」下車 徒歩1分





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最終更新日  2018.08.26 14:25:58
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