1190161 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

折れず曲がらず良く斬れる

折れず曲がらず良く斬れる

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2012.07.03
XML
 関ヶ原の戦いにおいて、小出氏は家名存続のため、父秀政と兄吉政が西軍、弟・秀家は東軍に分かれて戦ったが、父秀政治は大阪城詰め、吉政は細川藤孝(幽斎)が守る丹後国田辺城攻撃に参加したが関が原本戦に東軍として参加した秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵された。

 秀家は慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝討伐に向かった際に父の名代として兵300を率いてこれに加わる。途中で石田三成が大坂で挙兵して父や兄が三成率いる西軍に加勢したことを知るも、家康にそのまま従って東軍として関ヶ原の戦いに参加する。更に領国に帰還後には西軍方について敗走途中の長宗我部盛親の軍を同国石津浦にて撃退した。家康は秀家の功を高く評価して、河内国錦部郡1,000石が加増されるとともに、西軍についた父や兄の所領安堵を許した。

 二股保険作戦大成功で存続した小出氏ですがその後、但馬出石の小出氏は藩主の早世が相次ぎ、遂には第9代藩主・小出英及が元禄9年(1696年)に僅か3歳で死去すると無嗣断絶となります。

 しかし分知立藩した小出園部藩は、元和5年(1619年)12月、但馬国出石藩主であった小出吉親が新たに入部してきたことにより立藩し所領はおよそ2万9800石ほどである。初代藩主・吉親は園部城築城や検地、城下町の建設や治水事業に励んで藩政の基礎を固めた。吉親は寛文7年(1667年)6月9日に隠居し、家督は子の小出英知が継いだ。このとき、藩領は隠居料として吉親が5000石、英知が新墾田を併せて2万5000石を継ぐこととなった。翌年3月11日に吉親が死去すると、その隠居料であった5000石は英知の弟・小出吉直と小出吉忠がそれぞれ3000石と2000石に分割して相続した。

 第4代藩主・小出英貞は奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任し、次男の小出英治に1000石を分与している。第5代藩主・小出英持も英貞と同じくその三職を歴任し、第6代藩主・小出英常は奏者番になるなど、幕府の要職を歴任している。しかし第7代藩主・小出英タケの頃から飢饉や旱魃、洪水などの天災によって藩財政の窮乏化が表面化し、天明7年(1787年)には凶作と米価高騰などから百姓一揆が発生する。いわゆる天明の一揆であるが、これを皮切りにしてその後も火事などの災害が相次ぎ、藩内では打ちこわしや強訴が相次いで発生した。このため、藩では煙草の専売制や木材の市場移出制を中心とした藩政改革を実施して効果を挙げている。

 幕末期には早くから御所の警備を行なうなどして官軍側に帰順した。明治2年(1869年)の版籍奉還で最後の藩主・小出英尚は藩知事となる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で園部藩は廃藩となったが、なおも英尚は園部県知事となった。園部県は同年8月に廃され、同年11月には京都府に編入されたのである。なお、藩主家は、子爵に任じられた。

 小出秀政が豊臣秀吉の母方の縁者として大名に取り立てられた豊富恩顧の大名ですが見事徳川幕藩体制を泳ぎ切り幕末維新を迎えています。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012.07.04 14:00:36
コメント(2) | コメントを書く
[読書・歴史・ニュース] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.