母と私10
元旦。早々に母を訪ねるも、母は一般病棟にいなかった。緊急処置室。ここで母は、大型呼吸器をつけられ、モルヒネを投与されていたのだ。モルヒネ投与て、当事者や遺族に確認を取って始めるものなんじゃないのか。確かに担当医師は、【年内持つかどうか】とは言っていた。確かに食事を摂る元気も、排泄する元気もなくなってはきていた。私の与えるプリンやゼリーを食するのが、もはや精一杯だったのだ。母は、若い頃から、氷を食べるのが好きだった。すっと、涼しくなるのが、いいのだそうだ。お腹にはよくないだろうに、氷は時折食べ、少女のように、その感触を楽しんでいた。当然、下痢な状態が治ることはなく、下の世話は、私だけができたし、看護婦すら拒絶することも出てきていた。シーツの取替えで、ベッドを空けねばならず、車椅子に乗った。母と私の最後の外出である。20mは移動しただろうか。母に【実家が見えるよ】と言ったが、【残念ながら、しんどくてそれどころじゃないよ】と言った。【残念ながらね】母にお気に入りのベストを着せ、早々にベッドに戻ったものだった。母は、せん妄をきたしていた。いや、もはや記憶障害であった。年末までの数日は痴呆症と言ってもよかった。どんなにショックだったか。それでも、ここまで元気がなくなることなど、今までの入院中でも珍しいことではなかったし、たとえ痴呆症でも、介護する覚悟はできていた。実家には、電動ベッドと車椅子を、私が既に購入していたし、母はそれに対し、【待ってよ!】と言っていた。(早く治すから、待ってという意味だったろう)元気こそなくなってきていたものの、【立ち上がる努力】【歩く努力】私の協力さえあれば【食べる努力】をしてくれていたのだ。母の不安は、最大に達していたようには思うが、呼吸困難は、起きていなかった。私も母に付き添うのが何徹にもなっていたため、限界だったので、大晦日は、20時には帰り、仮眠。除夜参りで母の回復を願い、翌朝早朝に病院に向かった。たったそれだけのことだ。看護師は、【私の判断で、呼吸困難が始まったため、モルヒネを開始しました】と言った。本当なのか? 職員が減り担当医のいない、この正月にタイミングが合いすぎていないか?もって年内と言っていた担当医の予言と、母の容体は、それほど合致していなかったのだが、(数値はかなりよかった)ここにきて、急に摺り合わせしている感はないか?母は、異常に汗をかいており、【暑い、Yくん、あおって!】(無論、うちわで扇いでくれという意味である)これに返事をしたことが、母と息子、最後にまともに言葉を交わした瞬間であった。母は、モルヒネを投与されてはいたが、まだ最初は、普通に話していたのだ。苦しそうな母を見て、【もしかすると、これが最後なのかもしれない】と思った私は、まったく看病もしない姉を呼びつけ、会わせることにした。【お母さん、○○○(姉)がきたよ。】目を開ける母。すると、姉を見るなり、【いやああああああああああ!】と拒絶する声を上げた。記憶が混濁していたのか、姉をそこまで拒絶していたのか、死後の世界を見たと思ったのか、もはや定かではないが、父でも、微妙な拒絶があったことから、死後の世界を見た気持ちになったのではないかと私は推測している。そんな時でも、私には全く拒絶も何もなく、穏やかであり、その愛の深さと、その喪失に、絶望中の絶望を味わった。その後、母は、発作と昏睡の繰り返しが始まる。1月3日。母は、74歳の誕生日を迎えた。父と足湯を楽しむという、イベントを終え、母は珍しく、微笑んだのだという。その後、母は、ほぼ反応しなくなり、一日の八割が昏睡、夜中の発作で呼吸困難になった。夜の付き添いは、体力の限界から私だけになり、【母が暴れたら、私が抑えつけてしのげ】というのが、父のいいつけだった。しかし、その夜の母は、発作時に押さえつける私に叫ぶ。【なんでよ!】(なんで、押さえつけるのかということだろう)【呼吸器外しても、楽にはならんやろ!】すると、母は、怒りまくったように、私の胸倉を掴んだ。もはや、病人とは思えない力だった。【お父とも話し合って、なんとか病気と闘っていこうと、 道をさぐろうって話したんや。 お母さんには、感謝してる。 心から感謝してる。やし、最後まで頑張ろ!】と私は叫んだ。すると、母は、がっくりと力を落とした。もう、私が話しかけても返事をすることはない。人間の最後の器官は、耳らしく、話していることはわかるのだという。しかし、看護婦さんのような高い声でないと反応しないようだった。私は、看護婦さんに頼んで、何か言いたかったのではないかと、聞いてもらった。しかし、母は首をふるばかり。何もないというのだ。もはや会話ではなかった。私も母に励ましの言葉を発したというよりは、最後の言葉を発したようなものだった。母は、担当医の頼りない助手に、【病気なんかとっとと治せ】と怒っていたように、【(私のいうとおりにすれば、)治ると信じてたのに!】と私に怒っていたのかもしれない。私も父も、それこそ命がけで頑張ったつもりだが、癌は勝てる相手ではなかった。その後、母の昏睡と、発作は、圧倒的に昏睡が多くなったが、発作の短時間の勢いは、増すばかりで、今思えば、いかに苦しかったのかと思えるが、ベッドから飛び出していきそうな勢いがあった。その度に看護婦さんが訪れ、モルヒネの加速を私に確認した。父の方針としては、モルヒネを減らし、飲料や食事をとることで、徐々に回復していけるよう、私と父でやっていくことになっていた。実際に、私が看護婦に懇願し、モルヒネの投与を減らしてもらい、酸素吸収力が安定しているなら、酸素量も、モルヒネ量も減らしてもらって、回復を見たいことはお願いしたが、それは一瞬よくなっても、当然かもしれないのだが、回復などせず、すぐに緊急状態になった。口の中がドンドン渇いていく母の口の中をスポンジで潤したり、数滴、ドリンクをたらしていたりしたが、無菌室のときのように回復することはなかった。口の中は、潤しても潤しても、口の中の皮膚が一瞬で剥げてしまうくらい乾燥を続けていたのだから、母の苦しみは、想像を絶するものだっただろう。だからこその、発作の激しさである。看護婦は、モルヒネ投与を減らしたいという私と父の要望も知っていたし、モルヒネ加速の権限を、私に与えることで、自身の判断基準を設けない、保身のスタイルを貫いた。結果、最愛を注いでくれた母に対し、私が、死への加速レバーを引かされている、とんでもない罪悪感を植えつけられた。私は、もう、ほぼ、ギブアップしかけの限界だった。食事も喉を通らず、眠れず、肌荒れも激しかった。もはや、母の夜を通した看護も虚しく、限界を発して、父と交代で病院に泊まり込んだ。母は、徐々に発作すら起こさなくなり、口も乾燥したまま、昏睡が続くようになった。さすがに点滴も切らさず、植物状態でずっと生きていくようにも見えた。それでも尚、時折、ベッドを掴み、立ち上がろうとしたりした。どう見ても、死にたくない、生きていたい、生きようとする努力をずっとしている人だった。母の返事は、それでも、数日に一回あり、母は、再び、父と足湯を楽しむ。反応はあったものの、微笑むことはなかったのだという。母の反応が薄くなるにつれ、看護婦の対応も、ドンドン悪くなり、人が死んでいく様を見て、意味なく笑ったり、【回復の見込み】の話をすると、【あり得ない】などという酷い人間もいた。現代医学、そもそも西洋医学を否定されているようにでも感じるのだろうか。 我々もそれにすがって生きているし、否定する気持ちはないが、情もあるし、例外もある。仕舞いには、入院費を払ってさえいれば、対応して当たり前の、世話係の人ですら、水筒のお茶でさえ、変えてくれなくなった。病人が飲めなければ、必要がないというのか。新年も、業務開始日になり、父は、私の付き添いを辞めさせ、仕事に復帰させた。父だけが、24時間付き添うことにした、翌々日、1月10日、AM3:10、母は静かに息を引き取った。(AM4:00確認)母の最期に際し、全力で対応して頂いた看護士の方たちには、頭があがらない感謝の思いで一杯だったのだが、死の数日の豹変に、感謝の気持ちは吹っ飛んでしまった。介護もせず、母の持ち物を不要だと、捨てに捨てまくっている姉。姉のことでストレスだらけになり、脳梗塞で入院した父。(近日、退院予定。無事である。)私は、懸命に生きようとしていた母が、不憫で仕方がない。意固地な人だったが、私への愛情は、異常ともいえるほど深く、もっと生きていたいという熱い気持ちの助けにならなかったことを、とても残念に思う。もはや感謝と畏敬の念しかない。お母さん、今までありがとう。