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カテゴリ:秋山真之伝記
日露戦争の前半戦では、
連合艦隊先任参謀秋山真之少佐の上官は、島村速雄参謀長(大佐)でした。 海軍の場合、要塞が高速で移動しているようなものですから、 瞬時の判断が必要で、参謀が迷っていたなら、その間に沈没してしまうかもしれません。 したがって、戦闘中は、司令長官への助言も瞬時に行う必要があり、 もしも幕僚間で意見の相違がある場合は、参謀長に従わなくてはなりません。 しかし、真之は自説を曲げないというのか、どうもそのようなことは気にもとめなかったようです。 明治37年3月10日早朝、連合艦隊旗艦「三笠」は、 旅順口内に潜んでいるロシア太平洋艦隊を間接射撃(敵が直接見えない状態で攻撃する射撃法)するために、出動しました。 その時、駆逐艦「暁(アカツキ)」が三笠に接近してきました。 暁は、前日から出動していて、敵駆逐艦隊と交戦し、死傷者を出したのですが、 駆逐艦には軍医は乗艦していませんので、三笠に助けを求めたのです。 この時、戦艦「三笠」の前艦橋には伊地知艦長と真之が、 後艦橋には東郷司令長官と島村が位置していました。 島村は、暁の負傷者を収容するよう、飯田久恒(ヒサツネ)参謀に命じ、 飯田は、それを伝えに前艦橋に駆けつけたのですが、 真之は、今が間接射撃を行う好機であるといって、艦を停止させようとしません。 使いっ走りにされた飯田はたまったものでは無かったでしょうが、 前艦橋と後艦橋の間を30回以上往復したそうです。 この間、東郷は黙して語らなかったと言いますから、 よほどがまん強い性格であったのでしょう。 この場合の島村と真之の確執は、戦闘前に起こったことですから、 大勢に影響は無かったのでしょうが、もしも戦闘中に生じたとしたら、 大変な事になってしまいます。 その大変な事が、明治37年8月10日の黄海海戦に発生していて、 真之の言う「3分間の遅れ」も、実は2人の確執が原因だったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年11月17日 21時27分37秒
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