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ボールは回る、地球も回る。-深読みオシムジャパンと日々雑感-

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2007.02.26
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今年はじめての日本代表の合宿も、川口選手のふくらはぎの負傷というアクシデントはあったものの、無事に終わった。オシムさんや選手からは、少なからずポジティブなコメントも聞かれ、来月に予定されているペルー戦が、非常に待ち遠しい。

しかし、今月2日金曜日に、セリエAカターニャーパレルモ戦後に、カターニャのウルトラスによる暴動で警備をしていた警察官が死亡したというニュースが、同じサッカーで起こった事件だけに、私の気持ちを無条件でわくわくはさせてくれない。

出来れば、サッカーだけ楽しみたいけれど、オシムさんが言うように、サッカーが人生を作ったのではなく、人生がサッカーを作ったのだから、どうしてもこういう現実に直面してしまう。

事件の概要や背景、関連記事は、

激震のイタリアサッカー界の行方/ホンマヨシカ/スポーツナビ
イタリアが、揺れている。/四代目 奥間商店
ご無沙汰してます/発汗 (;^_^A
カターニャで暴動!! カルチョはまた闇の中/放浪のフットボーラー『キリ』の部屋

などに詳しく出ているので、是非読んでみて下さい。

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サッカーの試合観戦に限らず、暴力沙汰、犯罪の取り締まりに警察や国が介入するのは当たり前だが、これだけで事が解決する訳ではないのも事実だ。警察や国の介入は、病気になった時の対処療法と同じで、効力は絶大だが何かが解決できないまま、残ってしまう。

サッカー連盟や国や警察がやることは、力があるから成果は確実に上がるが、ピラミッドの上から、下の方をコントロールするという方法をまぬがれない。自分以外の誰かがやってくれるので、楽といえば楽だし、他にいい方法がある様にも見えないが、組織の力にすべてを委ねるのは、事の責任はサッカー連盟や国や警察にあって、小さな個人には責任はないと言っているようにも見える。

今年の初めネットの記事で、シアトルマリナーズのイチロー選手が、最近の日本のいじめ問題について「周りでいじめられてる子やいじめてる子を見かけたら、『一緒に野球やろうよ』と誘ってあげて欲しい」と言っているのを読んだ。

何気ない一言だが、実際にこういう場面に遭遇して、実行するにはかなりの勇気がいる。

私の子どもの頃、外では野球が遊びの定番だった。大体いつも同じメンバーで遊んでいたけれど、学年や町内が違っていたりして、それは仲良しと言うのとは少し違う集まりだった様に、今は思う。その中で、ボールを投げて、打って、追いかけて、誰かと何かをする事の楽しさと難しさを経験していたのだと思う。

だから、イチローが言っている野球は、娯楽や癒しとしての野球ではなく、野球が持っている力の事だと思う。いじめに対しての責任や対策を学校や国に押し付けるのではなく、自分たちにも何か出来る、そして、野球にはその力があると言っているのだ。

いじめの事件があるたびに、教師や学校を非難しても、事は半分も解決しない事をイチローは知っているし、その困難さも知っている。その上で、野球に希望を見い出している。そして、おそらく、野球を見に来てくれた人に、自身やチームのプレーを通して、その力を見せる事が、もちろん本人はそんな事は言わないし考えてもいないだろうが、彼の野球なのだと、私は思う。

そして、野球にそのような力があるとすれば、サッカーに、それがないはずはないだろう。

今年1月のヨーロッパサッカー連盟(UEFA)の総会で新会長になったミシェル・プラティニ氏は、

「私はサッカーにロマンを取り戻したいと思っている。私たちの文明社会において、サッカーは偉大なスポーツであり、この競技を愛する人びとの宝でもある。そして99.99パーセントの人びとは、芸術的なプレーヤーや、サッカーそのものを愛する、私と同じようなロマンチストなのだ。今日のサッカーには、政治、ビジネス、暴力、フーリガン、堕落といったものだけでなく、すばらしいものがまだたくさんある。私はそうしたものを守りたい。サッカーは人びとに喜びをもたらすゲームだ。それを忘れてはいけない」

という公約を掲げていた。(フットボールの真実 第219回 UEFA新会長ミシェル・プラティニの挑戦/大住良之)

すばらしくないものをどうするかは言ってないし、政治的に誇張、脚色された言葉使いは、少し鼻に付くが、彼もサッカーの力や希望について語っている様にも取れる。

もちろんサッカー連盟にも色々期待したいが、組織がピラミッド型にやることには、どうしても限界があるし、弊害もある。

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大昔、世界がこんなに複雑ではなかった頃、人々は、今と同じように、いろいろと問題を抱えていた。災害で食料が不足したり、疫病が蔓延したり、他の部族から襲撃を受けたり、災いの種は尽きなかった。戦いで肉親を失い、病気にかかった人を前に為すすべも無く、時には容赦ない自然の猛威にさらされていた。

そんな人々を支えていたのは、間違いなく、宗教だったと思う。それは現在、私達の前にある宗派的で、信じれば救われるという様な、何か特別なものが人の上にあって、すべてを操っているという、超越的なものではなく、それがなければ、もうだめだという様な、ギリギリの希望の様なものだったに違いない。

ある意味では、今のこの世界は、状況的に大昔より過酷だと言う事も出来る。本当に何が問題なのかが、見えにくくなっているし、その解決方法があるのか、ないのかさえ定かではない。

そんな中で、イチローは、答えは目の前にあるじゃないかと言っている様に思う。結局、世界は、ひとりひとりの手に委ねられていると言っている様に思う。

物と情報があふれても、世界の輪郭がどんどんぼやけて、捉えにくくなっている現代社会で、人がサッカーや野球というスポーツに惹かれるのは、娯楽や癒しといった目的だけではないだろう。人はそれと知らずに、スポーツの力に希望を見ているのではないだろうか。

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何でもかんでも、無理矢理オシムさんに結び付けるつもりは毛頭ないけれど、彼がどこかで「サッカーは宗教、スタジアムは教会」と言っていたのは、おそらく、このような意味合いがあるのだと思う。商業主義に大きく傾いた、その場だけのエンターテイメントや、安易な癒しなんかではない力を、サッカーの中に見ているのだろう。

そういうサッカーの世界で、暴動や犯罪や薬物汚染や八百長問題や人種差別が起こっている。そして物事には、全て理由がある。具体的には色々あると思うが、たぶん一番やっかいなのは、現状に麻痺して自分には関係ない、誰かが何とかしてくれるだろうと思っている人々が、たくさんいる事なのだ。

そして、恐ろしい事に、この中には、私自身を入れた世界の全員が含まれている。けれど、悲観的になる必要は少しもない。ひとりひとりに責任があるというのは、ひとりひとりが世界に参加しているという事でもあるからだ。その上、やる事は決まっている。「一緒に野球やろうよ」と言えばいいのだ。イチローの言葉通りに、ウルトラスやフーリガンのメンバー自身が、ボールを蹴ってサッカーをやってみればいいのだ。サッカースタジアムに何しに来たか、気付くかもしれないし、そうでないかも知れない、が、そんな事はどうでもいい。お前等も、サッカーやれよ。

Fuck the soccer ball!

野球やサッカーをやる事が、または見ることが、力だったり希望だったりするのは、そうとは思ってなくても、やる人や見る人が既に力と希望を持っているからだ。これは間違いない。

試しに、ちょっと外に出て誰かとキャチボールをしたり、サッカーボールでパス回しをやってみるといいだろう。私自身も、暖かくなったら、長く中断していた水泳を、また始めようと思っている。ブログを始めて、毎日更新する訳でもないけれど、オシムジャパンを中心としたサッカーの話題を追うようになって、コンピューターに向かう時間がかなり増えて、体調維持や健康というのが、一番の理由だが、体がそれとは別の何かを必要としている気もする。

世の中には、スポーツ以外にも色々なものがある。ウルトラスやフーリガンが発煙筒を焚いてパンクバンドをやればいいのだ。冗談っぽく聞こえるかも知れないが、要は、特効薬なんかどこにもないけど、答えは、必ずあるという事なのだ。

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ウルトラスやフーリガンの暴動が起こらないようにと、色々考えを巡らしてみたが、考えつく事は、答えの中心からどんどん遠ざかって行く。

彼らにサッカーをやってみろと言ったり、バンドをやってみろと言ったり、暴動の原因とは何の関係もない事ばっかりだ。暴動の背景にある、経済格差や移民差別を考えた方が良いのではないか。

けれど言えるのは、人が暴力をふるうのは、同時にその暴力を止めたいと思っているからなのだ。暴力を止めるために暴力を使ってしまう。一歩暴力にはまり込むと、抜け出すのは難しい。どんどんエスカレートして、警察というもっと強い力によって止めてもらうしかない。

この矛盾だらけの、逆説的などうどうめぐりの行為から抜け出すのは、簡単ではない。暴力は悪いと分かっていて、あるいは悪いからこそ、それを使うので、絶対なくならないのだ。しかも、暴力を止めたいからまた暴力にはまってしまう。だから、考えれば考えるほど、解決法は遠のいて行く。

悪いから止めろと、正面きって言うのが、一にも二にも大事なのは言うまでもないが、悪い、止めろと言うからやる、あるいは止めるためにまたやってしまうのが、暴力の本質なら、悪いとか止めろ、とかいう考えではなく、全く別の次元の事で、このジレンマをひっくり返すことは出来ないだろうか。かとえば、サッカーやれよとか、バンドやれよというふうに。

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暴走族のメンバーが、もうそういう年じゃないからという理由で、止めることがある。これって、暴走するのは、年のせいだと言っている様で、妙におかしい。単に暴走族を止める理由が欲しいだけのように見える。あえて、人に迷惑をかける事をして、つっぱっていたのに、ただ止めるのは、かっこ悪い。

インドに、無抵抗主義を唱えたガンジーという人がいた。これは、暴力の根拠をひっくり返そうとする、勇気を伴った普遍的な試みだ。何しろ、どうぞ暴力を使って下さいと言っているのだから。

そういう訳で、世の中、簡単な事は何もない。けれど、やれる事はある。それもまた事実なのだ。





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最終更新日  2007.05.17 10:36:06



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