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ボールは回る、地球も回る。-深読みオシムジャパンと日々雑感-

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2007.07.05
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サッカーの選手は、いつも何を考えているのだろう。もっともっとうまくなりたい、要約すれば、これに尽きる。そして、所属しているチームでその力を発揮してゲームに勝つ。おそらく、すべてはこの2点に集約される。

仕事として個人事業主でもあるサッカー選手は、文字通り正真正銘ひとりが全て、自分ひとりが勝負で、チームメートと言えども、それぞれがライバル、競争相手で、時にはひとつのポジションを争う敵になる事もある。

多くのプレーヤーが海外を目指すのも、自分の力を試してみたいという以上に、今よりレベルが高い所で、自分を鍛えて、もっともっとうまくなりたいという欲求があるからだ。

千葉の阿部勇樹が、浦和への移籍を決断したのも、明らかにこういう理由からだろう。

育ててくれた千葉への愛着、アマル氏をリーグ戦で胴上げしたいという気持ち、長く一緒に戦って来たチームメーとへの感情、そういうものを振り切っても、新しい事に挑戦し、自分を高めたいというのは、スポーツ選手にとってはごく当たり前の事だ。

そういう意味で、日本代表というチームは、召集された選手にとっては、選ばれた栄光とか名誉や、アジアカップやワールドカップを、ひとつづつ勝ち上がって行く快感、喜びと同様に、日本人のトップの中で、いつも海外のチームと戦いながら、自分を鍛える事が出来るという実際的な利益も大きい。

一方オシムさんは、日本代表チームを2010年のワールドカップに出場させる事、全てはこの一点に向かっている。今までのサッカー人生の知識と経験をこれにかけている。代表監督とはそういうものだし、ジーコもトルシエもそうだった。

まあ、オシムさんの事だから、単にワールドカップに出場すればいいというのではなく、テクノロジーでは世界のトップであるアジアの小国が、小さからぬ台風の目となって、ワールドカップに旋風を巻き起こしたいという野心を密かに持っていたとしても、別に驚く事はない。

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代表監督はチームのメンバーを選ぶという仕事をしなければならないので、強い権限が与えられているから、一見権力者のように見えるが、全くそんな事はなく、実はとても弱い立場にいる。試合に勝ちたいのに、自分自身は試合に出てプレーが出来ないのだ。権限があるのは、職種から来るもので、権力とは別のものだ。オシムさんは勿論それを混同したりはしない。

私がレストランのマネジャーをやっていて、どういう人を雇うかというと、自分の言う事を聞いてくれそうな人、この条件は、仕事の技術、経験と共にかなりの上位に来る。ただ、出来る人ほど我が強いというのは、どの分野でも同じだと思うし、頭を悩ませる事でもある。だから、管理職的立場の人は、けっこう私と同じ基準を、部下や従業員に対して持っていると思う。

会社やお店という組織にはマニュアルが不可欠である。製品の管理から顧客のクレーム対応まで、ほとんどの事がマニュアルに沿ってなされていて、合理的、経済的、そして効果的である。マニュアルにない事が起こったらというマニュアルも、もちろんある。ただ、マニュアルというのは、会社やお店の分身やコピーを作るという事でもある。

会社の部下や、お店の従業員がマニュアルに従うという事は、ある程度の仕事の質が保障されるし、上司がいちいち、ああしろこうしろと言わなくても済む。これは、上司やマネジャーにとっては、かなり都合がいい。

ところで、オシムさんはどうやっているのだろう?

去年の8月、オシムジャパン第一戦のトリニダード・トバコ戦に向けての練習初日の夜に、いきなり平成国際大学とのトレーニングマッチが組まれた。試合前、多少の指示はあったが、ポジショニングやバランスは選手自身にまかされていた。

サッカーの事を良く知らなかった私は、監督の指示はこんなに大雑把でいいのかと少し驚いたのを、今でも憶えている。

この行為によってオシムさんは、自分のやり方や考えを宣言したかったのだろう。試合が始まったら、後は自分でやれというメッセージと共に、そういう状況下で、このメンバー達がどこまでやれるかも見たかったはずだ。今になって、こういう事が分かる。

ちなみに、トルシエ監督の第一声は「私の規律を守れない者は即刻帰ってもらう」だったそうだ。

オシムさん特有の多色ビブスを用いた練習は、刻々と変わるピッチの状況を見定めて、 最善の判断とプレーの連携を習得するためのものだ。人生では何が起こるか分からない、が口癖のオシムさんが、選手たちに、ピッチで起きた予想していなかった事態に、即座に対応し、問題を瞬時に解決させる術を身に付けさせるのだ。

そして、注目すべきは、初めてオシム式の練習に触れた選手がほとんど例外なく、最初は面食らった、体より頭が疲れた、そして最後に、面白かったと感想を述べている事だ。

これは、この練習を続けて行けば、サッカーがもっとうまくなる、チームがもっと強くなると、スポーツ選手の本能が反応したのだ。大袈裟に言えば、オシム式練習の前と後では、ピッチの時間と空間が違って見えるのを体験したのだ。

練習で出来ない事が、本番で出来る訳がない。という事は、本番よりも練習が大切と言う事も出来る。おそらく選手達は、監督やコーチがどんな練習をさせるかで、その監督やコーチの力量を無意識的にチェックしていると思う。

そういう意味で、代表の選手たちは、オシムさんが、オレに付いて来いとか、一緒にワールドカップを目指そうとか、ミーティングで何かスピーチするよりも、オシム式練習そのものが、もっと雄弁に何かを伝えている。

そして、こうやっている内に、選手達は知らず知らず、オシムさんの重力に引き付けられて行くように見える。

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今年の3月24日のペルー戦で初召集された中村俊が、2アシストを決めたにも関わらず、オシムさんの評価はイマイチだった。ボールを持ち過ぎる、テンポが遅い。

けれど、その後の中村俊の言動を少し注意深く追ってみると、彼の代表への執着は日に日に強くなっているように見える。

アジアカップ直前の合宿が前倒しになって、6月24日から始まったが、中村俊は自分の誕生パーティーをキャンセルして、初日から合宿に参加し、インタビューで、「オシムさんのサッカーを、もっと吸収しなければならない。アジアカップで勝つ事も大事だが、何か実のある事をつかむのも大事だ」と言っている。少し前の、一部で勝てない事の言い訳の先手を打っていると批判された、オシムさんの発言かと、間違ってしまう程だ。

この中村俊に代表される様に、招集された一人一人が、オシムさんの重力に引き付けられて、チームは、日に日にひとつになって行く。

また、すでに現役を引退した中田英について、代表への扉は開いていると言っている。もちろん従来のプレーが出来るようになってという条件は付いているが、これはマスコミへのリップサービスや誇張報道だけではないだろう。

もし仮に、中田英が代表に復帰しても、以前のように、彼が他の選手から浮くような事は、絶対起こさせないでチームをより強くするという自信のようなものさえ感じさせる。

こういうオシムさんの重力とは、一体どういうものなんだろう。

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羽生選手が、先日のキリンカップの試合の前後だったと思うが、「一番勝ちたがっているのは監督だ」と言っていた。オシムさんを良く知る千葉の選手だから、なおさら説得力があるが、とにかくオシムさんは負けず嫌いで、勝負にこだわる人なのだ。そのために全てをつくす。これは間違いない。

とにかく勝ちたい、じゃあどうやって勝つかが勝負師オシムさんの腕の見せ所だが、ほとんど我を忘れてJリーグの試合に足を運び、深夜のテレビでヨーロッパのゲームを観戦するオシムさんの姿に、あまりにも自分の勝利へのエゴが強いため、それはもうエゴとは言えない様な力が、オシムさんを、貫いている様に見える。

大体、サッカー監督は誰だって勝負に貪欲だし、自分だけの事を考えている訳ではないけれど、オシムさんのエゴイスティックな在り方が、あるいはエゴイスティックでないその在り方が、そしてサッカーの捉え方や選手への接し方が、多分ほかとちょっと違うのだ。

どこかで、トルシエは軍隊的監督、ジーコは家族的監督という記事を読んだ。あえて型にはめる事の危険を承知で考えてみると、軍隊的とは、命令順守、規律を守る事で、全員が自分のエゴを抑えてチームのためにプレーする。上官の前に少なからず自由や自主性は制限される。

「私の規律を守れない者は即刻帰ってもらう」といきなり宣言したトルシエの代表チームは、選手のエゴをチームに向けさせる事には成功したが、監督と選手の間に上下の隔たりを暗黙の内に残してしまった。この事は逆に、トルシエは監督としての権力とそのエゴが欲しかったとも言える。本人がそういう意図はないと言っても、規則と順守という関係が、権力とエゴを作り出してしまうが、利点も欠点もガラス張りで、分かりやすいといえば、これはとても分かりやすい。

家族的というと、暖かで和気あいあいというイメージがあるが、そういう表面のソフトさに包まれて、父親の他の家族に対する強制力や、構成員の序列というものもある。

ジーコは、自分が招集した選手たちの技術や能力を非常に高く買っていた。客観的に、それは間違いではないと思う。いわば、彼らは充分にサッカー選手として、ひとり立ちしていると見ていた。サッカー選手として成人しているから放任主義のもとで自由にやらせた。

50年とか100年前の世界のいたる所では、子供は貴重な労働力のひとつだった。そこでは、子供は小さな大人で、成人とか一人前という言葉の意味も違っていただろう。自分の事がいくらうまく出来ても一人前とは呼ばれなかったと思う。誰かに何かを教えたり、伝えたり出来るようになって初めて、そう呼ばれる。

ジーコの代表選手たちは、完全に親離れをしてないのに、自由を与えられて戸惑っていた様に見える。また、家族的序列でスタメンをある程度保障された選手は、自分を過信してもおかしくないし、逆に、そこからもれた選手が不満を抱くのも自然だ。それを抑えるのに、父親の権限を持ち出しても、どこかに歪みは出る。

さて、オシムさんはどのタイプだろう?厳しさから見れば軍隊的でもあるし、まとまりから見れば家族のようでもある。

-後半へ続く-





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最終更新日  2007.07.06 04:25:55



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