マックス爺のエッセイ風日記

2014/07/25(金)05:09

わが祖先達の暮らし ~「仙台市縄文の森広場」から~(3)

考古学・日本古代史(127)

 「仙台市縄文の森広場」は、今から4千年前の縄文時代の山田上ノ台遺跡に建つ小さな博物館です。7月のある日、眼科の帰りに立ち寄ってみました。私達の遠い祖先である縄文人が、どんなものを食べていたのかを知る手がかりが、ここにあると思ってのことでした。  これはこの遺跡のジオラマです。4千年前の様子を再現してあります。広い台地の上に3軒の竪穴住居と、3人の縄文人がいるのが見えるでしょうか。現在は「仙台市太白区山田上ノ台」と言う住居表示ですが、4千年前はただの台地で、この下には名取川が流れていました。             昨日は果実やドングリなど植物性の食べ物を紹介しましたが、秋になると名取川を鮭が遡上して来ます。縄文人にとって鮭はとても重要な食糧で、長く食べられるよう干したり燻したりして保存したと思われます。また落とし穴を作ってウサギなどの小動物を捕えたり、イノシシやシカなどを集団で狩りをし、毛皮は冬期の衣服や敷物に、肉は食用に、骨は装身具や釣り針などに加工して無駄なく利用していました。  広場の一角に畑が作られていました。説明によれば、これらの作物は日本各地の出土例から縄文人が栽培したと思われる作物とのことです。ただし、「畝」や「棚」は管理し易いよう、現代風に変えてあると記されています。ここに植えられていたのはエゴマ、アワ、キビ、ソバ、ヒエの5種類ですが、私は強い違和感を感じました。ここ10年ほど私は考古学の専門書を読んでませんが、その間に日本の考古学に進展があったのでしょうか?とても不思議です。             これはエゴマです。エゴマはシソ科の一年草で原産地は東南アジアです。日本列島においては、インド原産のゴマよりも古くから食用にされ、三内丸山遺跡から植物オパール(花粉の化石)が出土しています。きっと現在のような畑ではなく、住居の周囲に種をばら撒いていたのでしょう。  これはエゴマの実です。炒って食用にしたようです。独特の香りがし、縄文人も好んでいたのでしょう。             これはアワです。アワはイネ科エノコログサ属の多年草で、原産地は東南アジアです。高さは1mから2mに育ちます。ウキペディアによれば、縄文時代の遺跡から発掘されたことがあると記されています。後になると「五穀」の一つに数えられます。  これはアワの実です。ビタミンB1を含み、鉄分やミネラル分が豊富な食料です。                  これはキビです。イネ科の一年草で、原産地はインドとされていますが、原種となった野生植物の発見はまだ確認されていません。ウキペディアによれば、日本列島への渡来は、「弥生時代」に中国を経てと記されています。高さは1m程度で、後に五穀の一つに上げられます。この博物館で、縄文時代に栽培したと考えた「根拠」は一体何なのでしょうねえ?  これがキビの実です。「サトウキビ」でもトウモロコシの「トウキビ」でもなく、「キビ団子」のキビです。             これはヒエです。ヒエはイネ科ヒエ属の植物で、イヌビエを栽培化したものです。冷涼地でも栽培でき、酒造りの良い原料になったようです。ただし私は縄文時代から栽培していたとの確証をつかんでおりません。  これがヒエの実です。かつては焼き畑農業でヒエを植えていた地域が九州などにありました。今でも民謡に「ヒエつき節」と言うのが残っています。             これはソバです。ソバはタデ科ソバ属の一年草です。最近の研究によれば、原産地は中国南部と考えられているようです。やせた土地でも育つ植物ですが、私は縄文時代に栽培していたことは確認していません。  これがソバの実で、脱穀後に製粉して食料にするのが一般的です。ただし、徳島県では「ソバ米」として製粉せずに食べることがあります。またブータンでは殻ごと製粉して食料にしています。苦い味がするようですが、日本でも古い時代はそのような食べ方をしていたのでしょうか。  後味が悪い最後になりました。ここの博物館がキビ、ヒエ、ソバを縄文人が栽培して食べたとする根拠は分かりません。私もどこの遺跡で出土例があるかを確認はしていませんが、機会があれば学芸員の方にお尋ねしたいと思っています。<完>

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る