マックス爺のエッセイ風日記

2017/02/03(金)04:30

遠ざかる記憶 その2

仕事の話(28)

 天下り問題が明らかになった責任を取り、文部科学事務次官が辞任することになった。OBと大臣官房人事課が結託して天下りの計画を立案していたと言うのだから、組織ぐるみであることは明白。おまけに追及を交わすためのシナリオを書き、天下り先の私立大学とも口裏を合わせていたと言うから悪質だ。  かつて文科省にいた後輩が言うには、天下り先となる団体設立は役人の手柄とか。省庁の統一や各種団体の整理なども、役人の悪知恵で結局は「焼け太り」になるのがこれまでの常だった。だが二流官庁と言われる文科省の中にも優秀な人は多い。後にトルコ大使になった遠山敦子さんや消費者庁長官になった板東久美子さんなどがそうだ。そして本当に偉い人は、決して威張らない。              ニュースは事務次官の辞任だけでは終わらなかった。何と文教協会が解体すると言う。この財団法人は文科省OBで持ってるような組織。「文部科学省職員録」など数種類の出版物は同省の傘下にある関係団体には不可欠の資料で、私の名前も25年間は役職者として載っていたのだ。  また同協会が発行するニュースは文科省はじめ関係団体の近況を知る重要なツールで、人事異動の内示の時期にはっとても気になる媒体だった。その協会がなくなったら、膨大な名簿やニュースは誰がどう作成するのだろう。    水戸偕楽園好文亭  さて、先日の「ブラタモリ」の舞台は水戸だった。水戸藩は江戸幕府を支える御三家の一つ。さりながら、江戸と水戸の二重生活で藩の経済は大赤字だった由。そのため佐竹氏時代の居城をそのまま利用し、藩主以下清貧に甘んじる生活だったそうだ。城下の偕楽園は町人にも開放されたが、竹林のタケノコや梅林の梅の実はいざと言う時の食料だったとの説もある。   黄門様と助さん格さん    この水戸が私の最後の勤務地だった。その頃、全国的な組織改組の動きが始まり、空前の忙しさとなった。だが訓練を受けていない私の職場では、何をどうすべきか理解してる職員がほとんどいなかった。転勤族の私は直ぐに問題点が分かったが、手足がなかった。苦しみながら作業を進めて規則も見直し、道を開いたが限界があった。     水戸芸術館  俗に「水戸の三ぽい」と言われている。曰く「理屈っぽい」、「怒りっぽい」、そして「ひがみっぽい」だったか。幕末には攘夷派と開国派に分かれて藩士同士が殺し合った土地柄だ。そして我が職場は、長年にわたって組織的な訓練不足で問題点が見えず、自ら改革する意識も失っていた。私が苦しんだ原因は他にもあるが、その深い因縁については書かないでおこう。  さて、孤立無援の私は次第に眠れなくなり、定年を前に辞職することを決意した。そのままだと死ぬことは確実と感じたのだ。その直感は当たった。私は辞職することでギリギリ生きることが出来たが、全国の同業の仲間が5人ほど死んだことを知ったのは、辞職後のことだった。当時はどこでも苦しんでいたのだ。        千波湖    ここは水戸市内にある千波湖。湖の左手にある緑地が偕楽園のある丘だ。単身赴任の私は休日になると、1周3kmのこの湖の周囲を走った。そして偶然ここで1人のランナーに出逢った。何も聞かずに私と一緒に走ってくれたKさんのことを、14年経った今でも決して忘れてはいない。  実は現役中に何度か死のうとしたことがあった。沖縄では怒りっぽい関西人の上司の連日の追及に苦しみ、大阪では部下の悪質な裏切り行為に苦しんだ。それで東北人は関西人には馴染めないと痛感した。それでもこうして生き永らえられたのは、私がランナーだったため。有り難いことに、走っている時だけは心が安らいだ。<続く>

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