テーマ:暮らしを楽しむ(388246)
カテゴリ:生活雑記
<武者小路実篤の絵によせて>
あれは二十歳をわずかに過ぎた頃、1人の女性が家に遊びに来いと誘ってくれた。私はなんの疑問も抱かずに、彼女の家を訪れた。家にはお母さんがいて、上から下まで私を眺め回した。それから数日後、彼女は私に別れを告げた。お母さんの許しが出なかった由。何が何だか訳が分からなかった。でも考えて見れば、あれはきっと品定めだったのだろう。お母さんの眼鏡に私が叶わなかったと言うだけの話。 彼女と出会ったのはある通信講座。何か意義のある勉強をしたいと思っていた時だ。当時私は大学図書館に、そして彼女は高校の図書室に勤務していた。両親のいない私は超貧乏で身なりも悪かった。一方彼女のお母さんは苦労して大陸から引き揚げ、その後家を建てた。その間にご主人を亡くされたようだ。彼女は大事な跡取りで一人っ子。きっとその相手を見定めていたのだと思う。 私は彼女を良い人だとは思っても、特に好意を抱いていたわけではない。そして彼女と母親の思惑を知ったのは、ずっと後のことだ。それとは無関係に私は通信講座を止めて、夜間の大学に入った。大学を卒業して一つ上位の資格を取得し、試験も一つ上のランクに合格した。結婚後間もなく転勤族となり、3人の子供の親となったのだった。 今日は終戦から72年の記念日。終戦の時はまだ1歳半なので、当然記憶はない。私の一番古い記憶は、自転車の荷台。その籠の中に、幼い弟もいたはずだ。恐らくは生母と別れた直後だったのだろう。着いた家には、柱に縛られた一匹の亀、そして庭には南瓜の花が咲いていた。終戦直後の食糧難の時代は食べ物が手に入り難く、庭先で野菜などを作っていたのだ。 それから何度も家を引っ越し、私には新しい母が出来た。それは父の新しい妻と言うべきだった。2番目の母は私の家庭教師と駆け落ちして逃げ、3番目の母は父の死により、莫大な財産を独り占めして逃げた。4人の未成年の子供たちには、そんな時にどう対処すべきか智慧がなかったのだ。 秀才だった姉は若くして死んだ。弟の妻はガンで死に、赴任先で若くて元気な後妻を得た。私は73歳で妻と別れた。長年の不和を解消したのが離婚調停だった。36歳で倒れ、その後も2度の発作で身体障碍者となった兄は存命中。しっかりした兄嫁が今も身近で世話をしてくれているのが有難い。こんな私達兄弟だが、やはり戦争の影が大きい。真実を話せる日がいつか来るかどうか。 昨日は両親と姉が眠る墓に線香を上げて来た。年老いて孤独死した母を、兄は父と同じ墓に入れた。後何回墓参に来れるかは不明。兄が「墓じまい」を考えているためだ。兄夫婦に男の子はおらず、父母も含め近所のお寺に永代供養を依頼した由。そうなると私が入るべき墓も無くなる。「千の風」ではないが、「そこに私はいません」だ。いずれ遠くで暮らす子供達の、負担にならないで済む方法を考えないとね。 仙台は8月に入ってから長雨が続いて、ほとんど晴れた日がない。日照率は10%程度。水に弱いトマトはほとんどが腐った。今朝は曲がったキュウリが3本獲れた。今となっては貴重な野菜。貴重な命を有難くいただく日々だ。72年目の終戦記念日を、私の貧しい歌で迎えようと思う。 曲がりたる胡瓜三本獲れし朝有り難きかなまだ生きてゐる トマト全て腐りたる夏長雨の終戦記念日またも来たれり 戦争とは何か平和とは何なのかわが人生に答は見へず お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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