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マックス爺のエッセイ風日記

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2019.02.18
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カテゴリ:日本史全般
~江戸と呼ばれた寒村~

  

 昨年12月初旬のある日、私は皇居を訪ねた。と言っても天皇陛下と会うためではない。その日は一般公開の日であり、皇居内の「乾通り」が通過可能な貴重な日。そこで仙台からのこのこ出かけたのであった。だが「入り口」がどこか分からずに迷って、さんざん歩いたのである。まあ良い運動になった。それにしても皇居は広くて、地理が良く分からずに困った。

   大手濠

 本丸の石垣と乾(いぬい)濠  

    乾濠

 平川濠  

  
             <丸の内にある馬場崎濠>

   下道灌濠  

 皇居は昔の江戸城だから、周囲を幾つかの濠で囲まれていることは分かる。もちろん防御のためだ。だが皇居の中にも濠があった。表示は「道灌濠」。恐らくあの太田道灌に因むものだと思う。それで皇居の詳しい地図を見たら、上下2つの道灌濠があると分かった。それから江戸城の歴史に関する興味が湧いたのだ。これはいつかちゃんと調べてみなければとね。

  

 これは平安末期の江戸近辺の地図。武蔵国豊島郡江戸と言うのが当時の地名。ここに江戸重継が館を構えていた。

   

 江戸氏の先祖は桓武平氏。江戸重継は源頼朝の御家人で、当時まだ寒村だった江戸を所領地としており、それで江戸氏を名乗った。後に江戸城の本丸や二の丸になる高台に居館を構え、平安後期から鎌倉初期にかけて活躍した。右は江戸氏の家紋。後に琉球王朝の尚氏もこれを家紋に用いたのだが、沖縄には元々家紋はなかったのだ。

         太田道灌  

 江戸の地に初めて城を築いた太田道灌は関東管領(かんれい)である上杉氏(摂津源氏の末裔)の一族で、室町後期の武将。歌人としても名高い。あの「山吹」に関する農家の娘の逸話(「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ哀しき」の「蓑」にかけた歌での返事)は作り話だと私は感じている。当時の農家の娘に、そんな教養はなかったと思うのだ。高貴な武将すら知らなかった歌なのに。

  

 この江戸に幕府を開いたのが徳川家康。徳川幕府は265年間続く強固なものであった。その間ほぼ鎖国体制を貫き、独自の高い文化を築き上げた。だが幕末期に先進諸国が開国を迫って押しかけると、第15代将軍慶喜が朝廷に大政を奉還し、幕府は急速に崩壊への道をたどる。

  勝海舟と西郷隆盛  

 官軍は大挙して江戸へ向かった。だが当時世界有数の人口を誇るこの地で両軍が戦えば、町は焼け、大勢の死者が出ることは明白。幕府代表の勝海舟へ、官軍代表の西郷隆盛は江戸城の無血開城を説き、勝はこれを受諾した。慶喜が水戸へ退く代わりに、助命したのである。彰義隊の戦いなど戊辰戦争はなお続くが、新政府誕生後明治天皇が城に入られ皇居となる。そして江戸は東京となった。<続く>





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Last updated  2019.02.18 00:00:23
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