2873479 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019.10.05
XML
~東北歴史博物館の特別展を観て~

    ポスター

 特別展「蝦夷~古代エミシと律令国家」を過日観て来た。これは東北歴史博物館開館の20周年記念と、宮城県多賀城跡調査研究所設立50周年記念の双方を兼ねた企画で、陸奥国国府である多賀城の傍にある研究調査機関としては力が入らざるを得ないと推察される。私のライフワークとも言える古代東北研究に直接関わるテーマだけに、珍しく会期早々に出かけたのだった。

       日本書紀の一節   

 太古倭国の東方に「日高見国」と言う国があった。人々は力が強くて極めて粗暴。声が大きく朝廷に従わない。いわゆる「まつろわぬ国」で、九州の熊襲(くまそ)と同様に恐れられていた。そこで記紀は日本武尊を遣わし、征伐したとある。

 さて、古代東北の蝦夷は後のアイヌとは異なる。「エミシ」と呼ばれた東北地方以北の人々。彼らの実態と、中央との関係を明らかにするのが今回の特別展の趣旨だ。

  
  <出土した蕨手(わらびて)刀(上)とその再現品および鞘(下)>

 「日高見(ひたかみ)」は太陽が高く上がる地方の意味で、後に「北上」に転じたとの説がある。縄文時代の東北地方は日本で最も栄え、弥生時代には青森県にまで早々に水稲技術が到達した。だが気候の冷涼化に伴って水稲が不可能(冷害に強い品種が生まれてなかったため)になると、北海道南部から「続縄文文化」が東北へと浸透する。古墳時代には中央政権との深い関りを示す古墳群が、宮城、山形まで進出する。このように、古代東北は早くから中央政権とエミシとの交流とせめぎ合いの場であった。

         
        <環頭太刀束頭(かんとうだち・つかがしら)>

 エミシは単なる狩猟民ではなく作物栽培も行い、倭国との接触でもたらされた製鉄技術も持っていた。また優位な馬産地で、海路を通じての交易も盛んだった。ただ中央から遠かったため、独自の体制を維持していただけのこと。アイヌ語とは異なり、言葉は互いに通じたことだろう。ただ聞き慣れない言葉の響きが、都人には恐ろし気に聞こえた。最近の研究により、エミシの高度の文明が次第に明らかになる。

  
        
   <ベルトとバックルの金具(上)とメノウとガラス玉の装身具(下)>

 こんな見事な装飾品を身に着けていた「蛮族」が、果たしているだろうか。ただ中央政権の手が届かない遠隔地に彼らが住み、独自の文化と政治体制を保持していただけの話。中央集権化が進んだ倭国、そして大和政権が自らの支配を拡大すべく、次第に北の大地へと進出するのも当然の帰結だろう。そして北の大地は、次第に大和朝廷の傘下へ組み込まれて行く。

  
    <周溝(しゅうこう)と墓壙(ぼこう)を持つ墓>

 現在の岩手県南部以北にはエミシ独特の墓がある。ただ中央や地方豪族ほどの権力と人口がなかったため豪壮ではないが、それでも良く整備された墓が整然と並んでいるのはしっかりとした政治体制があったからに違いない。これもアイヌの墓制とは異なる。東北のエミシが史書に登場する最初は、確か高志(越=こし国守)の阿倍比羅夫(あべのひらふ)が秋田県のノシロのエミシを征伐したことだった。

        
        <整然と石を積み上げたエミシの墓に石槨(せっかく)が見える>

 阿倍比羅夫はノシロのエミシを退治しただけでなく、ツカル(青森)や渡島(わたりしま=現在の北海道)のミシハセ(大陸の北方民族と言われる)をも退治したと文献にある。陸奥国府多賀城などまだ建設されていない時のことだ。陸路が整備されていない当時は海路を舟で渡るしかないが、飛鳥時代に良くそれだけの船団を組み、かつ勝利したと言う事実に驚かされる。<続く>

ノートえんぴつ 当特別展での撮影は許されてない。そのためここに掲載した写真は、別途購入した「展示目録」から借用した。極めて内容が専門的なため、写真でもないと理解が困難と考えたからだ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.10.05 09:43:02
コメント(8) | コメントを書く
[考古学・日本古代史] カテゴリの最新記事


PR


© Rakuten Group, Inc.