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メルボルン二世の思い出の中の地方競馬  楽天競馬ブログ 1422375 ランダム
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カテゴリ:地方競馬
法律の改正で注目されるのは、昭和26年に、著しく災害を受けた市町村でなくて
もその区域内に競馬場が存在する時は競馬を開催することができるようにした(法律
156号)。これによって、埼玉県にあっては、競馬場の所在地である浦和市が、9
月10日に指定を受け、11月30日に、第一回浦和競馬を開催した。
 公営競馬の躍進は、ただ単に売上の統計面だけではない。レース施行面においても
画期的な充実を見せ、嘗ての『草競馬』という侮蔑も一掃された。南関東公営競馬は
一丸となって、近代競馬へ努力を重ねた。国営競馬に先駆けてスターティングゲート
を、昭和28年に採用した。
 また同年3月に条例を定め、4月から公営競馬は画期的な「調教師制度」が行われ
ている。南関東に在厩する馬も四千頭を越え、連日開催体制に耐える競走資源も確保
された。同時に多くの逸駿も集まった。昭和29年(1954)国営競馬は特殊法人
の中央競馬会となり、その初の日本ダービーにおいて南関東公営競馬出身のゴールデ
ンウエーブ(地方名ネンタカラ)がタカオー、ダイナナホウシュウなどの強敵を一蹴
し、見事金的を射止めた。

 昭和26年秋、神奈川県の補助馬から出世したキヨフジが、府中のオークスを制覇
している。29年秋には大井豪サラ出身のオパールオーキッドが天皇賞を制している。
その後もダイゴホマレ(ダービー)、ミッドファーム(天皇賞)、タカマガハラ(天
皇賞)、オンスロート(天皇賞)らが、金的を射止めている。特に、昭和36年、3
7年はタカマガハラ、オンスロートの足下に中央競馬の強豪達が屈していた。
 アラブ界では、もっと、はっきりと中央競馬を圧倒している。中央競馬では、公営
競馬のアラブの強豪にアラブレースに出走されては『レースにならなくなる』ので、
公営競馬から挑戦するアラブにはサラブレッド競走以外には出走させないという冷酷
な手段を講じた。それでも、昭和29年にはホウセント、フクパーク(キノピオ)な
ど、公営競馬の強豪は、中央競馬のサラブレッドのレースに出走して錚錚たる戦果を
上げている。

 閑話休題。埼玉県の競馬は南下して栄えた。明治の馬政大計画で、馬がドンドン
増産され、大正時代に入ると豪農ばかりではなく農民の下層部にも、共同で馬を持つ
一本脚、二本脚(俗にもやい馬、入り馬ともいう)屋、馬喰から年間米○斗と言う契
約で借りる事が多数現れた。この時代となると畑競馬は更に一段と盛んになった。

 そして、その歴史的な特徴をあげると、埼玉県の畑競馬は秩父、児玉、比企など、
古来から馬の慣行が密接にあった緒都が栄え、それから斬時南下し、入間、北足立、
北埼玉の水田地帯の諸都に移行している。
 この例は畑競馬と違った競馬法のもとに行われた、「地方競馬」においても同様で
ある点興味深い。つまり、『地方競馬』は、かつて中世期日本の馬産王国秩父から興
り、それから斬時南下し、終極において、現在の浦和競馬に繋がっている。埼玉県の
「地方競馬」を史実的に調査すると

昭和2年  秩父競馬開設 秩父郡原谷村大字大野原
昭和3年  熊谷競馬開設 熊谷町荒川河畔
昭和4年  川越競馬開設 川越市田面沢村字今成
昭和4年  秩父競馬廃止
昭和6年  川越競馬廃止
昭和6年  大宮競馬開設 大宮町在宮原村字加茂宮
昭和8年  川越競馬移転復活 川越市新宿
昭和8年  熊谷競馬廃止
昭和12年 川越競馬廃止
昭和14年 大宮競馬廃止
昭和15年 春日部競馬開設 北葛飾郡幸松村字小渕
昭和22年 春日部競馬廃止
昭和23年 浦和競馬開設 浦和市大谷場

 現在の浦和競馬に定着するまでに、秩父競馬から熊谷競馬、川越競馬と移り、大宮
競馬から春日部競馬、春日部競馬から浦和競馬と経てきている。この間に川越競馬は
一旦廃止してから、別の場所で復活しているから、浦和競馬までに六ヶ所の変遷を見
ているわけである。
 秩父競馬から大宮競馬までは、地方競馬規則による地方競馬=「景品付き競馬」で
ある。

注2)現在秩父競馬場(1周600メートル)は秩父セメントの大野原工場が建って
おりその面影は全くない。

注3)埼玉県で、単勝式の他に複勝式を採用したのは熊谷競馬場が最初であって、貨
幣価値の高い時代だったから人気を博した。

<こぼれ話>
 法規の競馬は、埼玉県では二箇所しか許されない。それ以外の類似競馬はつまり、
『もぐり競馬』という事になる。その代表的なものが、「本庄競馬」と「鴻ノ巣競馬」
だとされている。
 本庄競馬は伝統は深く、古老の話によると明治末期の43年には行われていたとい
う。畑競馬から見ると、優秀な競馬といえる。大正時代に入ってからは、植木職の須
田万太郎氏が、自分の家の前に競馬場を作り、近在にいた出川春吉氏(故人、船橋競
馬の御大出川己代造調教師(出川博、克巳調教師の厳父)の厳父)がスタートのテー
プを切っていたというし、熊谷競馬が一時中止したときにも開催していたという。こ
の競馬は、高崎線の本庄駅すぐ南側にあり、土地の有力者たちが金を出し合って株式
組織でやったものだという。地方競馬規則が制定される昭和2年まで大いに栄えたも
のと思われる。
 鴻ノ巣競馬も明治末期から、昭和23~24年まで開催され、畑競馬でも超一流の
ものだった。法規的な県内二箇所という規定がなければ、本庄競馬、鴻ノ巣競馬など
は、今日、ヤミの中に葬り去ることなく、ローカルの競馬場として、美しい伝統を持
った競馬となったに違いないだけに惜しい。「競馬は決して、売れる競馬場だけが競
馬でない」ハズである。

<参考文献>
埼玉県競馬史(埼玉県競馬主催者協議会)
地方競馬史(地方競馬全国協会)
競馬及競馬法史(帝国競馬協会)
日本の競馬(恒文社





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最終更新日  2009年11月21日 10時52分14秒
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