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2010年09月08日
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カテゴリ:競馬全般
昭和49年発行の名著です
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最後に良い文章がある
<願いを込める”よき伴侶であれ”
好むと好まざるとにかかわらず、競馬は今や日本の都会人の中にどうしようもなむ食い入っている。ボクがあえて「ギャンブル」といわずに「競馬」といったのは、あきらかに競馬には他のギャンブルと異なる要素があるからである。そしてそれは競馬の持つロマンチシズムであり、また「その状況でもっとも正しいものを選び出してゆく」ものだからでもあった。だからボクは競馬における「受賞競走」は、あきらかに他の一般のレースとは異なったところに存在し、その存在そのものが、即ち競馬自体の存在価値に等しいものだとさえ言ったのである。
選挙などでは、過半数に従うルールなのである。多くの人たちがハイセイコーの単勝と言ったらそれに従うルールなのである。こうした空しさは、少なくとも国民の半数近くが、。感じているに違いない。だから人々は競馬に向かうののだ。
 競馬では、誰がなんと言おうと自分で選べるのだ。他にもレースはあるギャンブルもある。
しかし競馬は、その競走馬の性目の短さがサイクルの速さとなり、その絶えず変化する様相がいつも異なる決定をわれわれに迫ってくる。そしてわれわれは常にあるサラブレッドと同体化せざるを得ない。これに代わるものはちょっとないのである。
それだけにボクは、単に3-6だ5-8だと騒ぐのではなく。文字通り「考える競馬」の場を提供したかったのである。






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最終更新日  2010年09月08日 16時14分09秒
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