桐野夏生作「緑の毒」
大まかなあらすじ:
開業してクリニックを経営する川辺康之はおなじく医者で大病院に勤める妻カオルの浮気に気付いていた。そして嫉妬の感情をむしろ楽しみ、妻が浮気を楽しむように自分もある犯罪を密かに楽しんでいた。
それはレイプ犯罪。彼は自分が医者だということを利用し、薬で女を失神させて睡姦していたのだった。バレないとタカをくくっていたのだが……。
感想:
とにかく登場人物が全員最低でした(笑)
緑の毒っていうのはシェイクスピアの「オセロ」に使われた「嫉妬」の比喩だそうで。
上のパッケージイラストも気味悪いと言うか……。
物語の中には場面が変わっても必ず「邪悪」って言葉が飛び出して、それが=川辺康之だってことは読んでる側はわかるんだけど、私は逆に邪悪って言葉の意味が分からなくなってしまいました。
川辺康之の存在が邪悪なのか、それとも私が最初に書いた通り最低な登場人物たち全員が邪悪なのか。
というのは、川辺康之のレイプ犯罪というのは明らかに最低の行為。だけど、川辺自体も不倫する妻に嫉妬するだけではなく、浮気相手の人気や立場に嫉妬したり、とにかく劣等感が強い男で、医者という立場上普通の凡庸な人間とはちょっと生活環境の違うお金持ちだけど、そういう嫉妬する感覚からいえば彼は逆に正常だと言えるのでは?と思うからです。
なのに、川辺の友人で地方の大病院の院長・野崎が自分の母親が信仰する占い師の降霊会で、その占い師に、執拗に野崎の背後に邪悪な存在を感じ取って恐怖して出てけと言われるシーンがあるんだけど、そこで占い師がその「邪悪な存在」のことを川辺だと限定しているのが違和感があるんだ。
妻のカオルも川辺に「邪悪な空気」を感じ取っていて、それがなにかの犯罪の匂いだと考えているあたりがなんというか、無理があるように思えてならない。
その私が感じる違和感の正体は、たぶん川辺は弱い人間で間違いを犯した罪人というだけじゃないか?という気持ちがどこかにあるからだと思う。邪悪は言い過ぎでは、とも。
なんで邪悪という言葉を作者が持ちだしたのかちょっと気になるところです。物語のテーマは『嫉妬』なのにね。それとも嫉妬という感情が邪悪なんだろうか?
もしこの邪悪という言葉が登場人物全体に投げかけられた言葉ならスッと納得できるんですけどね。だって皆すごく淀んだ空気を纏っていたから。もちろんそれがすべて川辺の犯罪のせいなら川辺が邪悪の根源ってことになるんだろうけど、実際そうじゃないんだ。むしろ川辺は影響を受けた被害者的な一面もあったし。
彼は最終的にレイプ被害者から復讐されるわけなんだけど、納得のいかない最後でしたね……。いや、物語的には彼は最低な犯罪者だから罰されるべきだと思う。だからそれはいいんだ。だけど彼を犯罪に追いやった原因の一つを担う妻・カオルが逃げたその後が一切わからないのがなぁ~……。ま、そういう部分も全体的にこのお話の雰囲気を物語っているのかもしれませんね。