京の斜め道路の謎
■京の斜めの通り京都は碁盤の目の町筋だと言われてますが、所々に斜めの通りが見られます。その中で最大なのが後院通り。千本三条から四条大宮を結ぶ斜め45度の大通りです。以前から気になっていたので調べたら、けっこう何人もの人が解明されてました。原因は市電なんですね。明治28年に日本発の市電が走り、明治45年にそれを延長しようとしたら千本通りの材木屋町衆が猛反対し、止む無く斜めの道を通したとのこと。結果的に大きな後院通りが主要道路となり、千本通りは細く目立たない道のまま、今に至っております。<1914年(大正3年)の路線図を見つけました/東を上に描かれています>そんな目で京都の地図を眺め直すと、先の後院通り以外に、周辺の町並みにさからった斜めの道が幾つか目に付きました。・北野天満宮から南東に伸びる斜めの中立売通り・二条城の北にある丸太町の左上がりの道・東本願寺の正門を大きく迂回する烏丸通りほか2-3か所あり、どれもが初代の京都電気鉄道の名残のようです。<左から、北野天満宮から右下に伸びる道、丸太町の左上がりの道、東本願寺の迂回路><1914年の市電の路線図>■京の通りの角また京都の大通りは戦時中に拡張されたもので、当時の道はかなり狭かったため、曲がり角を削らねばなりませんでした。その痕跡が、寺町丸太町や寺町二条、木屋町二条などの角に見られます。<左から、寺町丸太町角、寺町二条角、木屋町二条角>(注:二条通りがズレているのは、二条大橋を古い橋の下流に新設したからと推測されます) →訂正:幕末の地図を確認すると、江戸末期にはすでに二条通りはズレており、橋も現在の位置に架かっていました。なので道のズレは市電のせいではないようです。失礼しました。<1914年の路線図、寺町丸太町~寺町二条角~木屋町二条/橋のたもとにも斜め通りが>■京の架線柱それと電車の架線鉄柱も所々に残っています。京都の大通りで汚くレトロな鉄柱を見かけたらそれかもしれません。私はまだ確認してませんが、先に上げた後院通りにも2-3本あるようです。 追伸:<ありました、壬生車庫前バス停横に2本、信号を 支えて立っていました。丸いポールヘッドが特徴>■京の敷石そうそう、市電が廃止になったあと大量の敷石が払い下げられたので、寺社や学校、路地や庭など町中いたるところで見られます。「電板」と呼ばれた90cm×45cmの御影石です。二年坂,産寧坂、石塀小路、哲学の道などの石畳もみなそうです。そんなわけで、七九四ウグイス平安京以降、秀吉も守った都の碁盤の目は、文明開化が壊しちゃったんですねー。京の街歩きの楽しみの一つに、市電の軌道めぐりも入れていただくと面白いですよ。---------------------------------------------市電については多くの人が書かれていますが、この方が撮られた昭和30年代からのすごい量の写真は、電車だけでなく当時の町並みを知る意味でも、大変見応えがあります。京都の電車