山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/03/26(金)19:15

丹後宮津の蕪村-古典文学散歩-尾崎左永子(歌人)著

与謝蕪村資料室(13)

丹後宮津の蕪村-古典文学散歩-尾崎左永子(歌人)著   完訳 日本の古典月報8第58巻 蕪村集・一茶集●昭和58年7月31日  丹後宮津に向う線路は、今どき珍しい単線であった。竹林の多い明るい山あいを、美しい川に沿ってとことこと列車は走る。茅花(つばな)が風にひらめいて光り、朴の木が青葉の上に大きな白い花を開いている。関西の風景はどうしてこうも穏やかにやさしいのだろう。 蕪村が、十余年にわたる江戸、関東、東北の漂泊をうち切ってのち京におちつき、やがて宮津に向ったとき、彼はすでに三十九歳になっていた。中年の、画業も俳諧もまだ己れの体を確立しきっていない蕪村にとって、宮津滞在の三年余は、どんな意味をもっていたのだろう。安永、天明期の、あのすばらしく充実した蕪村の俳句は、この時まだ片鱗もみせてはいない。画と俳諧のはざまで、蕪村は自分を見つめ直す時を得たかったのでもあろうか。ともあれ蕪村は、中年の一時期を宮津に過す。当時蕪村が身をよせた見性寺の住職竹渓和尚は、東山の僧坊で知りあったともいわれるが、豪快にして瓢逸、俳味ゆたかな人であった。近くの真照寺の鷺十、無縁寺の陵巴(両巴とも)もまた俳諧をよくし、蕪村は共に歌仙を巻いたりしている。 蕪村の『新花つみ』には、蕪村が見性寺で瘧(おこり)を病み、ようやく熱が下がったので、夜中に厠に行こうと廊下にふみ出したとたん、暗闇のなかで毛むくじゃらなものを踏みつけて大さわぎになる話が出てくるが(原文一八二ページ)、そこには竹渓の天衣無縫な姿が描かれている。狸に託して竹渓を描く蕪村の筆にはいうにいわれぬユーモアと親愛感がある。これが俳諧の味でもあろうか。そういえば晩年謝寅(しゃいん)と号した蕪村の画に「竹渓訪隠」の題がみえるのも、もしかすると竹の渓という風景だけではなく、そこに和尚の想い出が重なっているのかもしれない。 青葉の濃い山かげをたどり、トンネルをいくつもくぐりぬけて、列車は突然、明るい海ぎわに走り出る。由良川の河口である。北陸の暗爵な感じの日本海ではなく、透明な青い海が広い。そこへ向けて水量ゆたかな由良川の河口が、ゆったりと湖のようにひろがっている。  「由良の門を渡る舟人指を紹えゆくへもしらぬ恋の路かな」 と百人一首にある歌枕「由良の門」である。 曽根好恵はこの歌を作る前に、いつか実際に由良の門をその目で見たことがあるにちがいない。この穏やかな水の上に在る小舟は、指や擢(かい)に触れずにいたら、ひねもすゆらゆらと水上を漂っていることだろう。川とか海ではなく、瑚のような印象なのである。この歌、下ノ句は妙にしゃれているが、上ノ句には実見の手ごたえがたしかに感じられる。そして、蕪村の。   さみだれや大河を前に家二軒 も、あるいは由良川下流の風景に触発されたようにも思える。この句は、一人娘くのを婚家先からとりもどしたときの、父娘二人の姿を象徴しているのだという解釈もあるが、由良川をみると、この句の底にある画家の眼、その写実をよみとらずにはいられないのである。 由良川流域には古墳が多く、山根大夫の伝説などものこっていて、古くから文化の栄えた所であった。ここを過ぎてじきに宮津である。 目的の見性寺は、駅から徒歩十五分ほどの山側にある。修復中の山門だけがわずかに蕪村のころの面影をのこす。境内に河東碧梧桐筆の蕪村句碑がある。狸の出そうもない明るい日差しのなかで、御寺の年配の奥さんのやさしい言葉づかいが印象的だった。山門を出て少し奥の方へ回りこみ、宮津線の下をくぐったつき当りに、今は無住の無縁寺がある。すぐ先には真照寺。三体憎の棲家は、ごく近いのである。真照寺の庭は、さつきの花の盛りであった。ここでも住職の奥さんが突然の訪客に心のこもったお茶を出して下さった。 三寺にはすでに蕪村の作品は何ひとつ遺っていないが、私にはいっそ気持がよかった。宮津のどこに問い合せても、蕪村を売りものにする気分がない。その代り篤い人情とやさしい言葉づかいがある。名勝天の橋立をひかえて、夜は今でも遊廓の名残の料亭や旅館の並ぶ小路などがにぎわうそうであるが、 「二度と行こまい丹後の宮津、縞の財布がからになる」 とうたわれた派手な時代は、もう遠い昔の話のようである。 天の橋立を横眼に見て、宮津線丹後山田から加悦(かや)鉄道に乗り、加悦駅まで行ってみる。 「夏河を越すうれしさよ手に草履」 の句の前には「丹後の加悦といふ所にて」の前書がある。ここから二手ロほど南の与謝は、蕪村の母の出身地だといわれている。与謝野鉄幹の父礼厳の出身もこの付近である。現在では「ヨザ」と発音するようだ。 滝でバスをおり、〇・五キロほど歩くと山の上に施薬寺がある。別名蕪村寺。桓武帝の勅願寺で歴史は古いが、火事のためほとんど何も残っていないのだが、昔は藤村の描いたものがたくさん追っていたという。 蕪村の生立ちは模糊(もこ)としているが、父は大坂の毛馬の村長、母は奉公人だったといわれる。その母の出身地が、ここ与謝郡与謝村宇与謝。蕪村は幼時を母と共にこの地に過したともいう。幼いころから絵が巧みであったが、後年ここに来た時、以前村人に与えた画に落款を押してやるからといって古い絵を集め、全て焼き捨てて無断で立ち去ったという伝承がある。どこまで真実かたしかめようもないが、蕪村には自らの出生をぼかす行為がみられることも含めて、「蕪村は見栄っぱりだった」というこの地の人々の考え方に触れたのも興味深かった。 宝暦七年(1757)、藤村は宮津を去って京に還る。そして谷口姓を与謝姓に改める。この時期を境に、蕪村の画業も俳諧も、ぐんぐんその境界をひろげ、深化進展がいちじるしい。永い放浪時代と、自己確立の時代にはさまれて、宮津の三年間は、いわば藤村の冬ごもりの時代である。それは、母の胎内に居る期間に似ている。 蕪村にとって、宮津への下向は、母の胎内へ戻ることだったのではなかったか。そこで蕪村は新しい生を享ける。三俳僧の自然な生き方に目をひらかれる点もあったかもしれない。谷口姓を捨てて与謝姓を名乗ったとき、彼は古い自分に別れを告げることができたのであろう。そして蕪村はやがて、

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