与謝蕪村 よさぶそん
与謝蕪村 よさぶそん 週間『再現日本史』第89号 江戸Ⅱ⑦ 1771~1778 講談社発行 一部加筆 山梨歴史文学館 (56歳)国宝の「十便十宜帖」を合作・画俳に一流をきわめた″文人″ 明和八年(1771)、与謝藤村(五六)池大雅(四九)と「十便十宜帖(じゅうべんじゅっぎちょう)」という画帖の制作にたずさわる。中国・清初の詩に取材し、隠遁生活の快適さを描を描いた二〇枚の画のうち、十便を大雅が、十便を蕪村が担当した。この作品は、後に文豪・川端東成の蒐集品となり、昭和二六年(1951)には国宝に指定される。 蕪村と大雅は、個人的にも親交があったが、一世代後の南画家・田能村竹田がが「「好敵手」と評したように、日本の文人画の双璧ともいえる存在だった。俳俳人と画家家という二つの顔を持つ蕪村だが、同時代には画家としての評価の方が高かったのである。 蕪村は、享保元年(1716)、摂津目東成郡毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)に生まれた。裕福な農家の出身だが、一〇代で両親を亡くし、遺産を食い潰し故故郷を捨てたらしい。二〇歳の頃、江戸へ出て、俳人・巴人の内弟子となる。子のない巴人と蕪村とは、たんなる師弟関係を越え、本石町(現・東京都中央区日本橋)の庵「夜半亭(やはんてい)」で親子同然に助け合う生活を送ったという。 寛保二年(1742)に巴人が死去し、拠り所をなくしか蕪村は、俳諧宗匠として生きる道を模索し始める。 延享元年(1744)、宇都宮で初の歳旦帖を出版。号をそれまでの宰鳥から蕪村へと改め、宗匠としてデビューした。だが門下生は集まらず、約一〇年、北関東・奥州をさすらうが、前途は開けなかった。 「当時の蕪村は俗俳諧に批判的で、やや自信過剰な面があり、それが、俳諧結社を作るうえで障害になったのでしょう」白百合女子大学教授で『与謝藤村』の著書がある田中善信氏は、こう語る。 宝暦元年(1751)、蕪村は京都に上り、さらに丹後国宮津で三年間をすごした。藤村はこの地で画業に精を出し、漢画・大和絵・山水画など、多彩な手法で屏凧絵に挑戦する。 京都に戻ると、丹後の地名にちなみ、与謝の娃を名乗るようになった。やがて、蕪村の屏風絵を買い取る屏風講が生まれ、高価な統本や絹本の作品を次々に制作、独白の画風も完成し始め、画業は軌道に乗っていった。 「関東歴行時代にはきわめて評価の低かった彼の絵が、世間に認められ始めたのはこの頃でしょう。画材に費用がかかる屏凧絵を多数残しているということは、技術が高く評価されていた証拠です。ただし現在の認識とは違い、当時の蕪村は、芸術家というよりも職人です。客の注文に応じ、さまざまな画風で制作していたのです」(前出・田中氏) 一方、藤村は俳句を忘れたわけではなかった。宝暦一三年の『俳諧古道』付録には、有名な 「春の海終日(ヒネモス)のたりのたりかな」 を含む四句が掲載されている。