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三河の住人の庵

三河の住人の庵

慶長10年 大御所の駿府

大御所の駿府

駿府は 家康が生涯の3分の1をすごしたところ。

****** 家康の駿府滞在期 *******

天文18年(1549年)~永禄3年(1560年)
天正14年(1586年)~天正18年(1590年)
慶長10年(1605年)~元和2年(1616年)

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家康にとっては 幼少期・壮年期をすごした忘れられぬ愛着のある土地だったのであろう。

将軍職を秀忠に譲り 大御所としての晩年を駿府で過ごした。
駿府城は 天下普請という 諸大名総動員の城作りでできたという。

再建された東門と巽櫓がある。 本丸の再建案はあるようだが具体的なものにはなっていない。

駿府東門.JPG

今年07年は「大御所400年祭」を開催している。

大御所400年祭.JPG

ただ 名古屋城や大阪城にくらべて 城内に高層ビルが建っており 本丸を再建するには邪魔になる。
かといって 今更解体はできないだろうから 本丸再建は夢である。

駿府城.JPG

家康は将軍になったとき 祖母 源応尼の50回忌を行い 華陽院という寺を建てて菩提を弔った。

寺は 駿府城の近く 日吉駅の南にある。
往時4300坪の境内だったというが 今は面影もない。

源応尼墓.JPG

源応尼は 謎の人物である。絶世の美女。
刈谷城主 水野忠政に嫁して 於大を産み 
離縁されてのち 家康の祖父 清康の室となる、
清康の死後 他家に嫁いだ。生涯に5回嫁いだという。

娘の 於大が松平広忠に嫁して家康を生む。
義理の息子と実の娘である。
家康が 人質として駿府に住むや 一緒に移り住み家康を養育したという。
家康が桶狭間に向かった永禄3年5月6日 駿府で死去。

尼の墓のそばに 市姫の墓というのがある。
家康66歳のときの子、わずか7歳で亡くなったと言う。 
老いて出来た子は可愛い、家康はことのほか可愛がったそうである。
この子を 自分をいつくしみ育ててくれた祖母の墓の隣に葬ったのである。
家康の死の2年前である。

家康は 鷹狩りの途次 鯛のてんぷらを食したのが因で 亡くなったと言う。
その鯛のてんぷらを食べた場所といわれる 田中城は 焼津港の北方にある。

円郭式城郭の典型といわれる田中城は 三の曲輪・二の曲輪・本曲輪が同心円上に並ぶ 珍しい配置である。
地図ではその姿が はっきりと見て取れるのだが 宅地化がすすみ遺構はほとんどない。

田中城縄張り.JPG

わずかに残った遺構 三日月掘も それと聞かなければ ただの くぼ地でしかない。

田中城三日月堀.JPG

山中城祉の雄大な堀の数々を見たすぐあとでは 感慨もない。 

ただ下屋敷跡に移築された本丸櫓は 2層の各階に畳がしいてあって 趣がある。
座って 一杯やりたくなる雰囲気である。

田中城下屋敷.JPG



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(07年10月9日作成)




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