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週5日もある 暇な時間をすごす方法をあれこれさがしている。
奥平信昌という戦国期から江戸時代に活躍した武将の足跡を たどりはじめたのが 7月10日。 その後 愛知県東部(東三河)の山奥を巡っている。 この武将とその一族、調べるほどに興味が募る。 今 もっとも 興味を掻き立てられているのは 「奥平仙千代、おふう、虎之助」 1571年 この3人は 武田信玄に人質として差し出されていたのだが、 1573年 信玄病死の直後 奥平家が 徳川家康方に寝返ったため 武田勝頼により 磔にされた。 仙千代14歳 おふう16歳 虎之助16歳であった。 仙千代は 信昌の弟、おふうは日近奥平の娘、虎之助は萩奥平の次男であった。 3人の首は鳳来寺山門に晒されたのだ。 おふうと仙千代の首は ひそかに盗み出され 現在の岡崎市夏山町の遊仙寺と 桜形町の広祥院に葬られている。 1575年5月 奥平信昌が城主の長篠城に武田勝頼率いる軍勢が押し寄せた。 城兵500人による籠城戦を耐え抜き 駆け付けた織田信長・徳川家康連合軍により 武田軍は壊滅的な敗戦 1583年 勝頼自刃により武田家滅亡。 長篠合戦後 奥平貞昌は信長から一字を賜り 信昌と名乗る。 さらに 家康の長女亀姫を娶って 以後の繁栄の礎とした。 奥平家子孫は その後 大名として 宇都宮 山形 宮津の藩主を歴任 中津藩主のとき明治を迎えた。 奥平家にとって 最大の功労者は 仙千代たち3人であろう。 処刑の場所 墓のある場所。それぞれ 我が家から遠くない。 なんどか尋ねて 少しずつ詳しい歴史が見えてきた。 中津にも仙千代の墓があると聞いた。 墓の写真ばかりで たのしくないのだが 400年以上経た今でも 香華が手向けられている。 「鳳来寺山門前 仙千代墓」 ![]() 「鳳来寺山門付近 虎之助墓所表示」 ![]() 「遊仙寺 仙千代墓」 ![]() 「広祥院 おふう・仙千代墓」 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011/07/31 09:31:48 PM
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