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歴史、てドラマや映画等で取り上げられたイメージで覚えてしまうこと、て
ありますよね。で、私が不思議と思うことがいくつかあります。 1. 秀吉はお市の方を側室にしたかった❓ 秀吉がお市の方を側室にしたかったけれど、柴田勝家と再婚してしまった ので、茶々を側室にしたと言われています。 でも、後継ぎが欲しかった秀吉の側室は圧倒的に10代、20代が多く、本能 寺の変当時35歳くらいだったお市の方を側室にしたいと思っていたとはちょ っと考えられないんです。 35歳でも、お市の方は20歳くらいにしか見えなかったということですが。 家康が末娘に「市」と名付けたのも、お市の方がとても美しい女性だった からだと言われていますから、本当に美しく、若々しい女性だったのでし ょう。 お市の方が若い頃は、秀吉にとってのお市の方はとてもじゃないが手の届か ない存在。 浅井長政が滅んでも主である信長の妹であることは変わらないから、そこで 側室にも出来ない。 茶々を側室にしたから、お市の方の身代わりに・・・と考えるのもありでし ょうが、年齢的にまだ子供は産めるけれど、是非に、とまでは思わないので は❓ 女好きで有名だったようですが、後継ぎを考えて(高貴な)若い女性を求め ていたのではないかと思ってしまうのです。 2. お江は家光を産んでいない❓ お江は2代将軍秀忠との間に2男5女をもうけたとされています。 でも、研究者の中には、家光や他の女子も秀忠とお江の子ではないとするも のもあるそうです。 例えば、徳川幕府が開設されて当時はまだ大阪が中心地であったので、秀忠 は大阪と江戸を頻繁に行き来していたそうです。 幕府では、四女初姫の誕生年を1年早め、家光の生年月日を操作してお江の 子のようにしたという説まであるとか。家光は本当は初姫誕生後9カ月ほど で生まれているので、それではお江が大阪にいた時に出来た子になってしま います。 末娘の和子(かずこ、入内してまさこ)も、お江が亡くなった時にお悔やみ 送ったり喪中として過ごすと言うことがなかったそうなので、こちらも実子 ではないようだということです。 ただ、入内する時は正室お江の子として扱われたと思うので、何故喪に服す ことをしなかったのか不思議です。京都と江戸で離れていたからとか❓ また、有名でほぼ史実として捉えられているお江と春日局の間の確執は史実 では見つからない。 春日局が家康に直訴したもない。 これらは江戸時代に作られた話ではないかということです。 淀殿が豊臣の存続に固執して却って豊臣を滅ぼした、というのも江戸時代に 唱えられ始めたようです。 江戸時代は徳川をよく見せる為、信長の娘五徳が信康を悪く言う手紙を信長 に送った話とか様々な話が作られています。 秀忠とお江は、自分達の子の他にも養子を何人も取っているので、一部養子 が実子として扱われたのかもしれません。 では、誰がお江の実子かと言うと、確実なのは千姫、初姫、忠長。 次女珠姫、三女勝姫は、私にはどちらかわかりません。 これらの説も正式な歴史学者の他、歴史小説家等も含まれると思うので、あ くまでそういう説もあるとして読んで下さいね。 長くなりました。 もっとあったのに、書いているうち忘れました(^-^; 思い出したら、また書いてみます。 いつもポチっと応援ありがとうございます にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2026.02.12 14:35:04
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