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カテゴリ:雑感
日本は死を美化する傾向があって、それ自体は悪いことではないと思うが、それでも自殺は醜いことだと思う、と前回書きました。
私も小さいころは、自殺は許されることなのか否か、幼い頭で考えたりもしました。 最終的に、自殺はすべきでないことだと考えるに至ったのは高校生のころで、理由は、単純な話ですが文学作品に影響を受けたことによります。 それは私が「座右の書」としているロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」で、音楽家ジャン・クリストフの苦難の一生を描いた作品です。 この中で(全10章中、第2章)、クリストフが15歳のときのエピソードとしてこういう話があります。 クリストフに恋人ができて、一時は互いに燃え上がったものの、家柄の違いや諸々の理由で、振られてしまう。クリストフは絶望して家に帰ってきて、その夜、ぼんやりと死ぬことを考える。 すると家の入り口あたりが騒がしくなって、クリストフは、また父親が酔っ払って帰ってきたのだな、と思う。ところが本当は、父親は近くの用水路に落ちて死んだのを発見されて、家にかついでこられたのだった。 クリストフは、悲惨な溺死体となって横たわる父親を見下ろして、自分もつい先ほどまで、こうなろうとしていたのだ、と思い直す。 人生に対して、何と卑怯な方法を取ろうとしていたのかと。 そしてクリストフは自分の「内なる声」を聞く。 ・・・・・・・・・・ 「往け、往け、決して休むことなく」 「しかし私はどこへ往くのであろう、神よ。何をしても、どこへ往っても、終りは常に同じではないか、終局がそこにあるではないか」 「死すべき汝は死へ往け! 苦しむべき汝は苦しみへ往け! 人は幸福ならんがために生きてはいない。予が掟を履行せんがために生きているのだ。苦しめ。死ね。しかし汝のなるべきものになれ―― 一個の人間に」 (以上、岩波文庫版の翻訳を引用) ・・・・・・・・・・・・ このようにクリストフが自分の「内なる声」を聞く場面が何度かあって、それは「神」と表現されています。 「神」と呼ぶかどうかはともかく、誰しも、目指すべき自分の理想像があって、その「理想の自分」の声を聞くことはあるでしょう(「しっかり勉強しろ」とか、「今日は酒を飲むな」とか)。その内なる自分と対話しているのです。 上記引用中、「予が掟」つまり「私の掟」を履行するというのは、理想の自分(「一個の人間」)となるためになすべき労苦・努力を果たすということでしょう。 一時の恋愛におぼれ、それが終わったがために人生を自ら終えようと考えていた自分を、内なる声が叱責しているわけです。 詳細な解説は控えますがともかく高校時代の私はここの文章に甚く衝撃を受け、「一個の人間」になるために強く生きよう、それをせずに自ら死ぬのは卑怯なことだ、と考えるに至りました。 付け加えて言うと、子どもの自殺対策としては、役人や教師がいろいろ考えるよりは、「ジャン・クリストフ」に限らず文学作品をしっかり読ませるべきではないか、と思う次第です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/05/31 11:49:13 AM
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