カテゴリ:ジョギングとは、自己と世界と対話すること
いつもよりやや遅く、6時過ぎにジョギングへ出ました。 朝日はすでに地平よりずっと高く駆け上がり、今日という一日の始まりを意気揚々と宣言しています。 その圧倒的な陽射しを背中に受けて、河原を走りました。 足元の白っぽい砂に長い影が出来、こちらのい動きに合わせて影も走ります。 くっきりと、まるで生きているように濃厚な影です。 短く刈り取られた草原は金色に霞み、いつも見ている景色なのに幻想的な印象を与えます。 ある地点で折り返し、身を翻して今度は朝陽へ向かって走り出しました。 淡いオレンジ色に染まった空に、めらめらと燃えるような真ん丸い光源が浮かんでいます。 「あぁ、なんて神々しいんだろう・・・」 燦々と輝く太陽が、なぜかは分からないけれど尊く感じられて、頭が下がる思いがしました。 きっと古の人々も、太陽の光を浴びて同じような心境に至ったのでしょう。 大昔、太陽は神様として人間から崇められてきました。 このところ、今秋に旅する予定の伊勢神宮について調べていました。 「伊勢神宮」というのはある一帯に存在する神社の総称とのことですが、外宮(げぐう)と内宮(ないぐう)という大きく二つの神社が大本であるようです。 外宮は衣食住の神様である豊受大御神(とようけおおみかみ)を、一方の内宮は太陽の神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っています。 天照大神(アマテラス)は、弟のスサノオノミコトの暴虐ぶりに憤慨して、天岩戸に隠れてしまった伝説として聞いたことがあります。 太陽の神様であるアマテラスが岩戸隠れしてしまったおけげで、世界は光を失ってしまったという話ですね。 ギリシア神話やエジプト神話と同様に、やはり日本神話においても太陽を神格化した神様が存在したのです。 昨日も「神様がいるかいないか?」という「神」の存在を巡る命題について触れましたが、人間は生まれ育つ土地は違っても、みな同じようなものを感じているようです。 それが何なのか、はっきり見えるわけじゃないけれど、ただただ畏れ多くひれ伏したい思いにさせられる。 今朝の朝陽には、そんな心象を与えられました。 目、耳、鼻、舌、皮膚、人間は五感を使ってこの世界を感じています。 例えば、太陽の光を目で受け取ることで人は明るさを感じ、また草花が反射した光を受けて色を感じます。 そして、場合によってそれは、「美しいなぁ」と感じられることになります。 この「美しいなぁ」というのは「意識」のレベルでの感覚だと思うのですが、今朝太陽を見た時に感じたのは、それよりもっと奥底の方で覚えたものであったと感じます。 「魂で感じ取れ」といった表現を耳にすることがありますが、きっとそういう感覚のことを示唆しているのかも知れませんね。 わたしたちは日常、どれくらいそういう「心が震える」感覚を味わうことができるのでしょう? 自分自身を振り返ると、ほとんどそういうことはなかったんじゃないかと思います。 何かに触れた時、そこから感じるものをもっと深くで受け止めることができるのではないでしょうか? その訓練として、朝陽を目に映すことは実にいい習慣だと思います。 毎朝、太陽の光を全身に浴びながら、楽しんで走り続けましょう。 今日も好い一日でした。 ありがとうございました!! 【三文日記】 夜、久しぶりにぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗りました。 隣の人と密着して伝わってくる温もり、カバンの取っ手が引きちぎられそうな圧迫、色々なものが混じり合った臭い。 決して居心地のよいものではありませんけれど、毎日こんな中を通勤している方々の身になってみるという意味ではいい体験でした。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 ジョギング30分。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009/09/08 06:26:49 AM
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