カテゴリ:ジョギングとは、自己と世界と対話すること
まだ空高くに輝いている17時の太陽を見上げながら、河原の遊歩道をジョギングしました。 川沿いのサッカーコートや野球グランドからはそれぞれに球を打つ鈍い音と何かを指示する鋭い声とがこだまし、人々がまだ活動的であることが伝わってきます。 やや向かい風が強く、なびいた前髪やら地面から吹き上げられた砂粒やらが顔を刺激し、目を細めながら進んでいきました。 いつもそうしているように、ある地点でくるりと向きを反転し、今度は追い風に背中を押されるままに来た道を引き返します。 全身に血液が行き渡って手足を動かしつづける状態に体がなじんでしまうと、それまで働かせていた意識の余白を埋めるためなのか、様々な思念が去来するようになります。 こういうことは今日に限ったことではなくて、ジョギングしているときはたいてい同じようなことが起こります。 そのときとくに気にかかっていることを何度も何度も反復したり、ずっと昔に経験した記憶がどこからともなくフッと湧き上がってきたり、あるいは何かの小説の登場人物が発した言葉が蘇ってきたり・・・。 頭のなかで誰かが語りかけてきて、あるいは自分自身がその役割を務め、それに対してわたし自身が返答する。 その不完全な対話は、ときには問答が幾度も繰り返されるのですけれど、たいていはほどなくプツッと途切れて中空に消えてしまいます。 しかし、稀にそのとき浮かんできた言葉が、心を捉えて離さなくなることもあります。 「人間のだれもが、すべての人、すべてのものに対して罪がある」 傾いてゆく太陽を見据えながら走っている最中にとつぜん現れた上の言葉が、今日のわたしにとって妙に心に響いたのでした。 それは、「カラマーゾフの兄弟」に登場するゾシマ長老のお兄さんが、生前口にした言葉だったと思います。 ゾシマ長老より八つ年上のお兄さんは、十七歳の頃に悪い病気にかかり、床に臥しました。 それまでは神様など信じない、古いしきたりになど意味はないと言い放っていたその人は、病を得たことで人が変わってしまいます。 庭で囀る鳥に涙を流しながら許しを請うたり、召使いたちがこれまで自分にそうしてくれたように、これからは自分が召使いたちに仕えるんだと言い出したり、自分はもうすでに天国にいるんだと言ってみたり・・・。 病床にあるなかでその人が発した言葉が、上の「人間はあらゆるものに罪がある」という言葉だったと思います。 「カラマーゾフの兄弟」を読んだのはずいぶん前のことで、あらすじすら忘れかけているというのに、どうしてそのなかの一節が心を捉えるんだろう? 淡々と走りながら、不思議に思いました。 一読したときから、その言葉が強く心に響いていたのはたしかです。 なぜなら、わたし自身も容易に治癒することのない病気を得たときに、ゾシマ長老のお兄さんと同じような感覚を味わったことがあったからです。 何を与えられなくても、何を成し遂げなくても、わたしたちは生きているだけで幸せなんだ。 すべてのものに対してへりくだり、 慎ましく生きていたい・・・。 ゾシマ長老のお兄さんが言わんとしたこととまったく同じではないかも知れませんが、何か深いところで共鳴するものを感じたのだと思います。 今のわたしにとってその言葉が何を示唆するのかはまだ分かりませんけれど、じっくりと噛み締めてみたいと思いました。 今日も健やかに過ごすことができて感謝します。 ありがとうございました!! 【三文日記】 妻がお土産に日本酒「茜さす」を買ってきてくれました。 佐久酒の会が有機農法で作ったお米を使用して仕上げたお酒です。 飲んでみると風味に深みがあり、焼き鳥とともに美味しくいただきました。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 ジョギング30分。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010/06/07 06:41:53 AM
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