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![]() 文明化された社会における一つの理想要求の実例が、この問題を考察する手掛かりとなるだろう。これは<隣人を汝みずからのごとくに愛せよ>という言葉である。これは世界的にも有名であり、この命令を誇らしげに掲げているキリスト教よりも古いものではあるが、きわめて古いものだということは出来ない。有史時代になっても、人々はこの命令を知らなかったのである。 ・・・ 詳細に検討すると、さらに多くの難点がみいだせる。この見知らぬ人は私にとって一般に愛するに値しない存在であることを正直に認めよう。この縁もゆかりもない人は、私への愛はまったく感じていないようであり、私にいかなる顧慮も示していないのである。隣人は、それで利益が得られるなら、私を傷つけることに遠慮はしないだろう。そして私が受ける傷の大きさと、自分の得られる利益がつりあうかなどと、自問することもないだろう。 それに隣人は私を傷つけることで利益が得られなくても構わないのである。それによってある快感を満たすことが出来るのであれば、私を嘲笑し、侮辱し、中傷し、自分の力を誇示することに遠慮しないだろう。隣人が自分は安全な立場にいると感じるほど、そして私が無力な立場に立たされるほど、こうしたふるまいを示すようになるのは確実である。 「幻想の未来/文化への不満」フロイト(光文社古典新訳文庫) ジークムント・フロイト氏は、この憎むべき「隣人」を描き出すに当たって、きっと、ある特定の、身の回りにいる、「誰か」、を、思い描いていたんだろうなぁ?と想像すると、笑える。およそ80年後、これをそっくり書き写している私も、まさにその通りだからである(笑)。 ほら、人は、例えば「隣人」なる観念について言及するにも、やはり「擬人法」を用いている(笑)、のだ! うちの最高齢猫、にょろりん♪、あれは「セプテンバー・イレブンス」直前の真夏、だから、もう12年半前。よたよたと道路の真ん中に這い出てきて、しゃがみこんでしまった。居合わせた運転者たちは、みな「困惑」して、停車しているのだが、誰も、出てきて、何とかしよう、とはしないようなので、やむなく、車を降りて、その、片手の手のひらに乗るばかりの、毛むくじゃらの物体を、拾ったのだ。それが、私のその後の「猫人生」のスタートを飾る(笑)、記念すべき一瞬だったのである。 だから、まもなく、12歳になる。すっかり体重も減ってしまって、一日の大半を、まどろむように眠っている。食もとても細くなってしまって、あぁ、もう長くはないんだろうなぁ? 考えてみれば、 1:19歳になるまで両親と姉と、過ごした。 2:一番長く続いた(笑い)「彼女」とは、10年暮らした。 だから、私の生き物との「同居」暦の中で、すでに、にょろりん♪、は二番目の長さなのであった。 もう、ほとんど歯がないのだろう。食べ物は丸呑みにしてしまう。だから、ドライ・フードは乾きすぎていて、あまり食欲を感じないらしい。だから、こうして特別に、ウェット・フードを買ってきて、でも勢い込んで食べてはいてしまったりもしたから、一日に何回かに分けて、少しずつ、食べてもらう。 それでも、こうして食欲があるうちは、まだ、生き延びてくれる見込みがあるから、嬉しい。 【にょろりん♪、動画】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.03.19 17:45:52
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