カテゴリ:家族
この日は出勤だった。
いつもなら自分で必ず実家に連絡するし、土曜の出勤がわかっている時には代休の日に電話を入れることにしているが、この週は忙しかったので、代休の日にも実家に連絡できなかった。 クマイチに「もしも時間があったら『ちゃとは今日は仕事なので』って電話しといてくれる?」と頼むと二つ返事でOK。 会社で。 昼前に携帯が鳴った。 「おとん、また入院したらしいよ」とクマイチ。 ***** 父のこの9ヶ月、病院とOn-Offで付き合ってきていた。 去年の6月にちょっと遠くにある専門の入院し、肺がんを放射線で叩く治療にはいり(切除は体力的に厳しいという判断)8月の末に退院。 副作用もまったくなく、父は早く退院したくてたまらなかった。 退院後は以前とそう変わらずにホイホイ出歩くように一時はなっていたが、11月頃になって体調不良が発生。 放射線投与の副作用には遅れてくるものがあり、その肺炎が始まっていた。 その後、なんとか自宅でできる限り体調を整えるべく、用心して生活していたのだが、年末になってアキレス腱を切ってしまって即入院。 この時の病院は自宅からほど近かったのが幸いな上、うちのような古い家だと、なかなか室温をどこもかしこも安定させていられる状態ではないので、アキレス腱の回復とともに、肺の養生としても、しばらく病院にいるのは悪いことではなかったはずだ。 その入院中の2月頃にかなり咳き込み始めるが、もとは風邪だったのかもしれないが、結果的に、文字通り肺炎=肺の炎症が進行してしまっていた。 夜中に咳き込むことで、同室の人たちに迷惑をかけるという気持ちがストレスになったこともあり、父は2月20日過ぎに退院し、自宅静養となる。 週3回、足のリハビリに自宅から通うことになっていたが、あまりにも呼吸が苦しそうな状態のため、母がいちいち服を着せ替えたり体を拭いたり(入浴は体力的に無理)するだけでも本人は息が上がっているという話を母から電話で聞いていた。 父だけでなく母も心配だったため、私は一度3月3日にロンドンを発って帰省。 家の中でコタツにはいっている父。 これまでのような気力が感じられず、弱ってきたなという実感が沸いてくるのをどうすることもできなかった。 この時、初めて母に「覚悟はしときや」と言った。 母は後になって「アンタのあの言葉はものすごくショックで、その晩は寝られんかった」と言っていたが、私はたぶん、それは母にというよりもむしろ自分に対して警告したのだと思う。 ***** クマイチが私の代わりに実家に電話してくれた時、あまりに憔悴した母の声に驚き、話を聞くと、その日の昼過ぎに父は急遽入院となったとのこと。 母が昼過ぎに用事で出かけようと身支度し、カバンを持って玄関を出る直前に、父がいきなり大声を出して「行くな」と言い、そこに突っ伏したらしい。 母は家の玄関を出ると、父が2月まで入院していた病院に突進し、病院の職員に断りもなく病院の車椅子を持ち出して家に戻り、父を車椅子に乗せて一目散に病院に駆け込んだところ、足のリハビリどころではないとの判断で、またしても入院。 呼吸が苦しく、血中酸素濃度が著しく下がってしまっていた。 母はクマイチ相手に1時間も、その日の一連の話をしたらしい。 母は「あと3分遅かったら自分は出かけていたし、もしもこれがその後に起きていたらと思うと・・・」という怖さにかなりとらわれていたらしいが、クマイチが「その3分の差でお母さんが実際にそこにいたという事実が、不幸中の幸い以外の何物でもなかったんですから」となだめてくれたとのこと。 最初は落ち込んだり興奮したりしていた母も、話しているうちに冷静になってきたとみたクマイチは「ちゃとが明日電話しますから今夜はお母さんもよく休んで下さい」と言って電話を切ったそうだ。 次の日曜、状況がわかるだけに私も気が重く感じながら母に電話した。 が、初動が速かったことが幸いし、父は一晩入院したらだいぶ落ち着いたので「もう、そんなに心配せんでええわ」と言っていた。 そんな中、月曜の朝4時に電話が鳴り、間違い電話だろうと思って寝ぼけて出たら、母は興奮することもなく「お父さん、もう今度はあかんかもしれんわ」と電話口で言った。 この9年ちょっとの間で、母がイギリスに国際電話してきたのはこれが初めてのことだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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