カテゴリ:家族
父は、1ヶ月前の今日の時点では存命だったのだと思うと、やり切れない気持ちになる。
いい人だったと思う。 この世を去ってから、あらためて、いろいろな人たちから愛されていたおっさんだったなぁとしみじみ思う。 まあ、父にもよくないところはあったし、ちょっとお調子者なところもあったので、謹厳実直な母(爆)が時々ぷんぷんしていたこともあったが、総括すると、父と母は見合いでの晩婚ながら一生仲良くしていたことに間違いはない。 父と私との関係を10段階で評価すれば、恐らく9.5か、ちょっとおまけして10だったのではないかと思っている。 (弟の指向性は父にも母にも私にも似ておらず、物事を判断する上でのあいつのインテイクとアウトプットの回路がよくわからないので、ここではバッサリ省きたい) おとんの葬儀を終えてロンドンに戻ってから、これまではだいたい週に1回だった実家(おかん)への電話を週に2~3回に増やした。 のどまるさんの日記を読んで自分も苦笑するところがあったが、本当はこの電話は結構大変なのだ。 自分が体調が悪い時だと特に、受話器を持って実家の番号を押すのにかなりの気合と勢いが必要だ。 いつも、電話でひとしきり話すとおかんはすぐに「今週これだけしゃべったら来週は電話してこんでええよ」と言うくせに、翌週ちょっと私の電話の時間が遅いと、電話に先に出たおとんが「ちゃとはまだかいなー、ておかんが言うてたとこやで」とこっそり言っていたことが何度もあった。 おかんはいつも、すでにおとんにはリアルタイムで実況した後の話を絶対に私にもう一度、聞いてもらいたがっていた。 そうすると勢い余って、3週間連続で同じ話が出てくることもあり、厳しい私は(爆)「それ、もう3回目やで」とダメ出ししたりした。 そして、おかんは一人になった。 四十九日が済むまでは蝋燭や線香の番もしなければならないし、今はまだ自宅に悔やみに来てくれる人がずーっと続いているようだが、誰も来ない日もあるだろう。 ごはんのおかずくらいは買いに出ているのかもしれないが、「いっぺんアレ食べたいな」とおとんが何かリクエストすることもなくなった今、わざわざ自分だけのおかずのことをあれこれ考えておかんが材料を買いに行くことはどう考えても少なくなったと思う。 へたすると、おかんはテレビ相手に一人で突っ込む以外に口も利かない一日になるかもしれないと思うと、やっぱり話し相手になってやるのは私しかいない。 とにかく、おとんが他界した日から10日間は私は戦々恐々としていた。 義父が亡くなり、その10日後に義母が急に追いかけるように亡くなったことの衝撃は今でも忘れられない。 うちの両親も仲が良かったが、クマイチの両親も形は違うが相当仲がよかった。 お義父さんはもともと長患いでずっとお義母さんが世話をしている状態だったが、お義母さんは過去に病歴もあって決して健康体とは言えないにしても、10日後にいきなり亡くなるほど病んでいたとはどう考えても思えなかった。 嫁の私が見ても、あれは絶対にお義父さんがお義母さんを引っ張っていったとしか思えず、それと同じことがうちのおかんにも起きたら、と思うと精神的にいてもたってもいられない状況だったのだ。 そういうことで10日経ったのを見届けてロンドンに戻ってきて、おかんに電話しては話に付き合ったり仏事の予定を確認したりしているが、がんばっているようだ。 だいたい、実家の知恵袋はおとんだった。 何よりも天性の人付き合いの才に恵まれ、世間一般の常識や故事に長けていたし、かといって、聞かれない限りはそういうことを他人にひけらかすことのない人だったが、いろいろな人からよく相談を受けていた。 こういう冠婚葬祭時のしきたりや慣習については、そこらへんのマナーブックを見るよりもおとんに聞くのがいちばん間違いなかったが、今のようなこんな時に、その肝心のカウンセラーが実家からいなくなってしまったのでおかんが右往左往しているのだ。 そうはいうものの、おかんは持ち前の几帳面さで、前にもらったお見舞いの記録をずーっと残し、今度は今度で、頂いてしまった香典や供物の記録をとって逮夜や忌明けの段取りを一人で黙々とやっているようだ。 世間ではそれを当たり前というのかもしれないが、そういうことはこれまで全部おとん任せだったおかんがそれをやっているという事実が私には驚きでもある。 そのおかんは私との電話で時々、やっぱり泣く。 「お父さんはあの時すでにしんどかったんや。それに気づかんかった私はアホや」 「もう一回、○○のうなぎと△△のケーキ、食べたかったやろなぁ。一回『△△のケーキ、買ってこうか?』て言うたら『いらん』て言わはったん、あれ、遠慮してたんやろか」 「あの時、お父さんが苦しそうやったから(病院で)酸素をもうちょっと増やしてもらうように頼んだのに『もう少し様子を見ましょう』って言われたけど、あの時もう一押しすべきやったんや」 「ホンマはお父さん、孫に会いたかったやろなぁ・・・ひとことも言わんかったけど」 弟の離婚がもう正式に成立したかどうか知らないが、弟の嫁は子供2人を連れて先々月に実家に帰ってしまっていたから、連絡先はわかっていても弟の嫁にはお葬式の連絡もしなかった。 でも、姪2人のうちの上の子はものすごくおとんに懐いていたし、おとんも時々しか会えないこの子をかわいがっていた。 離婚問題の火種の時点で、おとんは何よりもこの子のことを不憫がっていたのだった。 おかんが一つずつ、わざわざ悔いの残る気持ちをあっちからこっちから持ってくる。 そのたびに私は慰める。 「今、こうして残っている者は『あの時こうやったら』という気持ちから永遠に逃れられへんと思うよ。そやけどな、ほな果たしてどこまでやってたら悔いがなかったかって考えてみたことある?『もうこれでええ』と思える状態なんか、実は一つもないのとちゃうやろか」 「おとん自身が『おかん、ここまでやってくれたら上等や』て絶対に言ってると思う。私の目から見ても、ほんまにおかんはようやったよ。私やったらそこまで絶対にようせーへんと思う」 そう言いながら今度は私が泣く。 その間におかんは慰められた気がするのか、少し泣き止む。 この繰り返しが今の私とおかんのルーティンになってしまっている。 父は着物を着ることに慣れていた。 実家で父の写真を整理している中で、破顔一笑という言葉はこの顔のことかと思うような、父の着物の写真があった。 周りの余分なところを切り取り、いつもながらに似合う着物姿の上半身の父のその写真を自分のパスポートカバーの内側に入れて戻ってきた。 もう一回でも二回でも海外旅行する気満々だった父を、こうして私はここに連れてきた。 時々、普通に道を歩きながら「お父さん、お父さん」と呼びかけている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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