カテゴリ:家族
一日サボるとサボりグセは確実に出てくる。(苦笑)
そうそう、ちょっと父のことを書いたのでもう少し。 最初、3月17日の朝に母から「危ない」と電話があって3週間帰っていた時のことだ。 飛行機のトラブルに遭った私は18日の昼過ぎには京都に着いているはずが、結局、病院に駆けつけたのはその日の夜だった。 父は意識を取り戻していた。 私が飛行機でエライ目に遭ったことをすでに聞いており「大変やったな」と気遣ってくれた。 それから主治医の先生に呼ばれ、父の様子を聞いた。 「末期です。あと1週間か、2週間・・・」 ええっと思った。 その話を聞いていた前の週に私は京都からロンドンに戻ってきていたばかりなのだ。 確かにアキレス腱を切って入院していた間に咳がひどく、間質性肺炎がまた進んでいたので体力的には弱かったというか、前のようにほいほいと外を出歩けるような体ではなかったが、何が末期なのかわからないでいると、結局は癌が再発しており、それが1ヶ月くらいの間で急激に進行したというのが本当のところのようだった。 「だから、少しでもよくなって最後の最期は家にいさせてあげようと思ってやっています」とのこと。 「本当にもう・・・手はない・・・ということですか?」と聞く私に先生は「そうです」と静かな声だがはっきりとそう言った。 「ご本人も覚悟はされています」と先生はそうも言った。 そうなのか、と思った。 不覚にも、それでこそおとんや、と心の中で思った。 これは後からわかっていた話だが、父は自分のその時が来たらどう段取りをつけるかについて自分の弟(だから私の叔父)に伝えていたそうで、叔父は後日、その父の話を書き起こして持ってきてくれた。 しかし、こういう時に人間はなかなかそうすぐに死んだりはしないものだ。 それはクマイチのお父さんもそうだった。 一度、危篤になったと聞いて駆けつけたら意識が戻って生還。 亡くなったのはそれから3ヶ月後だった。 まあ、うちの父の場合はそれよりは短かったが、それでも最初に危篤だという時には、人間はなんとか生き延びる確率はわりあい高いとつくづく思ったりもする。 その後、病院の父のそばにいてあれやこれや話しているうちに、あれっと思い始めた。 父は、弟や私が駆けつけた日のことを指して「わしゃ、あの時はもうアカンと思ったわ」と言った。 何度かそう口に出す父のその言葉を聞きながら、主治医の先生が私に「ご本人も覚悟はされています」と言った言葉の意味合いを、先生は勘違いされているのではないかと思ったのだ。 死ぬ覚悟ができている人が「わしゃ、あの時はもうアカンと思った」とは言わないだろう。 つまり父の覚悟は「死ぬことに対して」ではなく(先生はそう思っていたのだと思う。が、人間、そこまで達観できるものではない。父はあくまでも凡人だ)「病気となんとか闘うことに対して」の覚悟だったのだろう。 そんなことに遅まきながら気づいた私は、うかつなことを父には言ってはいけないと思った。 もちろん母にも言えないし、気をつけなければとあらためて気を引き締めた。 父がいた病院では、4月8日の選挙の不在者投票を受け付けていた。 この時の選挙に近所の子が出馬しており、昔から家族ぐるみの付き合いのあった家でもあるため、その子をとても応援していた。 その不在者投票を病院の職員のヘルプで行えることになっていたのだが、その申し込みの締め切りが3月29日、実際の不在者投票が4月5日というスケジュールだった。 父は最初の頃は不安定で不在者投票もムリかもしれないと思わせるような状態。 母は母で、46年目の結婚記念日である30日を頭に置いて「お父さん、30日は何の日かわかってるな?がんばらなあかんねんで」と声をかけつつも、もうダメかもしれないと思っていた。 父が上向きになってきたのは3月27日くらいからだっただろうか。 なんとなく安定している時間が多少長くなってきた・・・そんな気がした。 父は私に「不在者投票の申し込みをしたんや」と言った。 ここで私が大失敗をする。 「アカンかもしれんけどな・・・」と父が言った。 それに対して私が「お父さん、ナニ(弱気なことを)言うてんねんな」と言うと「そやかて、やっぱり初出馬ではちょっとムリかもしれんがな」と、父。 げげっ、私は父が(自分自身が)選挙の日までもたないかもしれない、という不安を口にしたと思い込んだから否定のレスポンスをしたのだが、父の意図は、選挙に出たその近所のボンの初出馬・初当選はちょっと厳しいというところにあったのだ・・・私の不安がバレただろうか、父が真意を勘ぐらないかとひやひやした。 その父が「あのな、明日からちょっと新聞読むわ。それとテレビのカードも買ってきて」と言った。 それまで一進一退で酸素投与のお世話になってベッドに横たわっていただけの父は、新聞を読んだりテレビを見たり、というところまでいかなかった。 自発呼吸だけではムリな状態は同じでも、自分でもなんとなく調子がいいのを感じてきたのだろう。 いい兆候だ、と思った。 そして翌朝5時過ぎに目が覚めた私は、配達された新聞を玄関に取りに行って愕然とした。 「植木等さん逝く」 ・・・えええ~~~、この新聞、持っていくん? テレビをつけると6時頃から早朝のワイドショーが始まり、どこも全部、植木等が前日に亡くなった話以外にやっていない。 今日から新聞を読む、テレビもちょっと見てみようかと思っている父に植木 等他界のニュースはマズ過ぎる。 年齢が同じだし、あっちは肺気腫でこっちは肺がんと多少の差はあっても、テレビでは鼻から酸素のチューブを通して青島幸男のお葬式に参加する、在りし日の植木等の姿・・・ よりによって、こんなに見せたくないニュースはないが、あれだけの有名人の訃報を父の目に触れさせないようにする方法なんかない。 主治医の先生はあと1週間か2週間と言ったが、父は1ヶ月がんばった。 母は今日も電話で「1ヶ月でこんなことになるなんて速過ぎる・・・」とまた悔やんでいた。 しかし、思うのだ。 母は、仲良しだった父に一日でも長く生きてもらい、自分が話しかけるだけでも相手がそこにいてほしいだろう。 が、父の気持ちになってみれば「ホンマに家に帰れる日が来るんやろか」と思いながら新聞とテレビで無聊をなぐさめながら、だんだん押し寄せる不安と焦りと閉塞感の日々がさらに1ヶ月続いたら、これくらい父にとって苦しくて悲しいことはない。 母に言う。 「お父さんは体も心ももう楽にならはったんやから。私はそのほうがお父さんのためによかったと思うよ」 母が納得していないことはわかっている。 それでも、そう口にして自分がそう思いたいし母にもそう思ってほしいのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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