じゃがたら
「じゃがたら」について書きたい。「じゃがたら」陣野俊史(河出書房新社)を興味深く読んだ。昔、「じゃがたら」というバンドがあった。80年代に活動。ボーカルは江戸アケミ。初期インディーズの頃の奇行、過激なパフォーマンス、中期の精神錯乱によるバンド活動停止、そして、36歳で自宅の浴室で変死。その後、同じメンバーのギター、サックスが相次いで亡くなる。大槻ケンヂの唄に「死んだらカリスマかあ?」というのがあったが、その高い音楽性とともに「江戸アケミ」及び「じゃがたら」は、まあ知る人ぞ知るバンドなのである。私は積極的なリスナーではなかったが、80年代のバンドブームの波をもろかぶりした世代なので、そのバンドの存在と、一通りの楽曲は知っている。大槻ケンヂも「タンゴ」「がまんできない」という名曲をカバーしていて、これはとてもいい。本著は「じゃがたらの歴史」を、関係者や元メンバーの証言、ライブレポート、などで綴る前半と、町田康、山本政志、近田春夫などの「じゃがたら」と関わりがあった表現者たちのインタビューの後半で構成してある。私は「劇団」=集団のことや、「表現」のことを考えながら読んだ。バンドの誕生から活動停止、一人の表現者の死まで。しょうもない文学より、より「世界」のこと、「世界と自分の関係」のことが書いてある気がした。江戸氏の声はでかい。けして上手いとはいえない。強い。それでいて乾いた声なのだ。でかくて、冷たく乾いた声なんてめったにない。サウンドはジャンル分けのことはようわからんが、同じギターのリフ、フレーズ、同じリズム、同じベースラインが、繰り返し繰り返し、カノン的に延々と続く。それに、サックス、クラリネット、ホーンが絡む。単音はソリッドでパンクロックの匂いがする。そこに、江戸氏のでかい声のコトバがタユタウ感じ。(「味」をコトバで表すのが難しいように、音楽をコトバで表すのは難しい・・)その後、米米とか大人数のバンドが出てきたが、ダンサーも、コーラスもいる大人数のバンドの草分けではないだろうか。でね、「かっこ悪い」のだ。リズムなんかかなり凝ったおもしろい作りをしているのに、アカヌケない。「今が最高!」とシャウトしながら、「今が最高!」と言ってない言い切れないアカヌケなさが興味をそそる。失礼だけど「田舎者」の匂いがする。しかし、もうありとあらゆることを思考してきたんだなあという迫力は感じる。私はこのバンド好きだ。江戸アケミ語録・「生活から目線をはずさない認識方法」で詩を書く。・「ノンフィクションであるけれど、また、過去は同時にフィクションである」・「ひとつの事物につねに想反する裏側の意味を認める」・「東京では空を見上げることが少ないんだよ。田舎者は空を見上げず、ただロボットのようにぼうぼうと歩いているだけ」・「リズムはシチュエーションである。思想的には、それは情況を体現するものであり、表現としては、場面構成の原型である。いずれの場合も、重層的な構成体であり構造であり仮構なのであって、自然への還元を許さない」(これなんかは今漠然と考えている「戯曲」を想う。「戯曲」の中のリズムとは?ベースラインとは?歌詞とは?「歌詞」だけではない。「歌詞」も「リズム」も「ベースライン」も、セリフになんのかな。セリフの「意味」なんて優先順位の一番ではないしな)江戸氏が錯乱状態に陥り、バンドが活動休止になったときの同じバンドメンバーが語ったこと。「どこかで時代の必然のような気がしていたのね。避雷針のような存在で、アケミがたまたま打たれた」「都市生活者の夜」人々が眠りにつくあいだにもう一人の自分がゆらり起き出す人っ子一人居ない月夜の道をただひたすらに走り続けるさあ飛び乗ろう夢の列車に夜のしじまに輝く星を昨日は事実、今日は存在、明日は希望今は午前四時少し前朝焼けを待ちわびながら終わりのないダンスはつづく絆を失った砂漠の町で小鳥たちのさえずりさえも消えて都市生活者は笑いころげた悲しいほどに笑いころげた「BIG DOOR」ライオンは昼過ぎまで寝て高層ビルの谷間を駆け巡るカラスはハトに恋焦がれ地上に舞い降りてきて肉体関係をせまる見上げれば空から黄色い雪が頭上をおおいつくす時代はいい方向に動いている太陽の照りつけるアスファルトの隙間からマンホールの果てしないトンネルをくぐって突然、それは俺たちの前に現れた蘇る白いライオン 燃え尽きる昼と夜何がどうして 誰がどうなった何がどうして 誰がどうなったお前はむせかえる二十一世紀の街に現れたイメージの解放者じゃがたらの唄に「お前はお前のロックンロールをやれ」というフレーズがある。相反した「周波数を合わせろ」というフレーズがある。それは江戸氏がバンド(表現集団)に求めたことかもしれない。矛盾をかかえて引き裂かれる。近田春夫氏はじゃがたらの、江戸アケミのコトバについてこう語っている。「言葉だけ繰り返していても打楽器として機能している。そこに意味を持たせていく。直感ではないと思うんだ。長時間かけて練習やって、アタマの中で繰り返していた言葉がどれくらい生き残っていくのか、そうやって歌詞として定着してきた言葉だと思う。(中略)言葉の中にあるドライヴ感とかそういった方向を捨てて、もうひとつの方向、意味や物語を重視する方向に行っちゃったんで、僕はだんだん詰まらなくなった。最初は、言葉が機能を持っていて多角的だった。立体的に言葉が音楽の中に絡んでひとつのサウンドになってた」雑然としたCOの棚を掘り返した。1枚だけ持っていた。「南蛮渡来」暗黒大陸じゃがたら。インディーズ時代の名作。リズムがたゆたう。コトバがたゆたう。上記の歌詞はわりと後期の作品。このCDでは、「また来る者たちのお祭りだ」と、死者の再来を喜び、「ぼくたちは光の中でチャチャチャ」と延々繰り返す。本日は、下鴨車窓の田辺氏と呑む。「いちばん露骨な花」の感想を聞く。あの作品に関していろんな人から直接感想を聞く機会があまりなかったので、田辺氏にどうしても聞きたかったのだ。感想を聞きながら、自分の作品に関して相対的になれた。次、何をするのか少しだけ見えたってこと。なるほどね。エンゲキの話しかせえへんねんけど、楽しかった。