|
カテゴリ:カテゴリ未分類
初めて大島映画に出会ったのは、高校を卒業した年の6月。もちろん「青春残酷物語」 である。 映画少年ではなかったので、それまで監督で映画を見に行くことはなかった。だが「松 竹ヌーベルバーグ」が話題になっていて「大島渚」がその代表として論じられていたので、 初めて監督の名に惹かれて映画館に行った。 そして…、 映画ってこんなに豊かにものが言えるのかと思ったのだった。子どもを堕した桑野みゆ きのベッドの脇に座り込んだ川津祐介が、隣室の久我美子と渡辺文雄のボソボソと語り合 う声を聞きながら、リンゴをかじる長い長いショットに引き込まれていた。 だからといって映画監督を目指そうと思ったわけではない。意識的に映画を見るように なったという程度である。 続いて「太陽の墓場」も見たが、「日本の夜と霧」はたった4日間で打ち切られたので 見ることは出来ず、見られたのは大学3年になってからだった。 それから20数年後、監督協会の会員になり、あの「大島渚」と直接話をすることがあ ろうとは…。 協会の創立60周年記念のとき、実行委員になった。そのメインイベントとして「限り なき前進」の上映とフォーラムが行われた。その映画をやろうといわれたのは大島さんだ った。(原案・小津安二郎、脚本・八木保太郎、監督・内田吐夢) フォーラムの担当者になったので、今までにないパネラーをと思い、大島さんのほかに、 石井聡互、伊藤俊也、塚本晋也、山田洋次、渡辺孝好の方々に頼んだ。みなさん、快諾し てくださった。大島さんは「司会は誰がやるの?」と言われた。「まだ決まってません」 と答えると「そう」と言われただけだった。きっとシンポジウムの進み方が気になられた のだろう。後に司会が山名兌二さんに決まった時は、何も言われなかった。 フォーラムの前日、とんでもない事態が発生した。大島さんがロンドンの空港で倒れた というのだ。だが中止するわけにはいかない。急遽、実行委員長の恩地日出夫さんにパネ ラーになってもらった。「大島渚」という華はいなかったが、充実したシンポジウムだっ た。大島さんが見ていたら納得してくれたと思う。 83年6月、ぼくの初めての映画が「戦場のメリークリスマス」と同じ時に封切られた。 (ヒットせず2週間で打ち切られたが)そのことは、ぼくの密かな宝である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.02.13 22:15:54
コメント(0) | コメントを書く |