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2013.02.13
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カテゴリ:カテゴリ未分類
            
 初めて大島映画に出会ったのは、高校を卒業した年の6月。もちろん「青春残酷物語」
である。
 映画少年ではなかったので、それまで監督で映画を見に行くことはなかった。だが「松
竹ヌーベルバーグ」が話題になっていて「大島渚」がその代表として論じられていたので、
初めて監督の名に惹かれて映画館に行った。
 そして…、
 映画ってこんなに豊かにものが言えるのかと思ったのだった。子どもを堕した桑野みゆ
きのベッドの脇に座り込んだ川津祐介が、隣室の久我美子と渡辺文雄のボソボソと語り合
う声を聞きながら、リンゴをかじる長い長いショットに引き込まれていた。
 だからといって映画監督を目指そうと思ったわけではない。意識的に映画を見るように
なったという程度である。
 続いて「太陽の墓場」も見たが、「日本の夜と霧」はたった4日間で打ち切られたので
見ることは出来ず、見られたのは大学3年になってからだった。
 それから20数年後、監督協会の会員になり、あの「大島渚」と直接話をすることがあ
ろうとは…。

 協会の創立60周年記念のとき、実行委員になった。そのメインイベントとして「限り
なき前進」の上映とフォーラムが行われた。その映画をやろうといわれたのは大島さんだ
った。(原案・小津安二郎、脚本・八木保太郎、監督・内田吐夢)
 フォーラムの担当者になったので、今までにないパネラーをと思い、大島さんのほかに、
石井聡互、伊藤俊也、塚本晋也、山田洋次、渡辺孝好の方々に頼んだ。みなさん、快諾し
てくださった。大島さんは「司会は誰がやるの?」と言われた。「まだ決まってません」
と答えると「そう」と言われただけだった。きっとシンポジウムの進み方が気になられた
のだろう。後に司会が山名兌二さんに決まった時は、何も言われなかった。

 フォーラムの前日、とんでもない事態が発生した。大島さんがロンドンの空港で倒れた
というのだ。だが中止するわけにはいかない。急遽、実行委員長の恩地日出夫さんにパネ
ラーになってもらった。「大島渚」という華はいなかったが、充実したシンポジウムだっ
た。大島さんが見ていたら納得してくれたと思う。

 83年6月、ぼくの初めての映画が「戦場のメリークリスマス」と同じ時に封切られた。
(ヒットせず2週間で打ち切られたが)そのことは、ぼくの密かな宝である。








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Last updated  2013.02.13 22:15:54
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