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カテゴリ:ショートショート
『ゴキブリの翅』 1 この艶が堪らなく素敵なの、と満面に笑みを湛えながら彼女は言う。恍惚としてそれを眺める姿は、一見すると背筋に強烈な悪寒が走るほど不気味なものでしかないのだが、しかし僕には、不思議とごく自然な光景に思われてならない。 その姿は、まるで恋に胸を焦がす乙女のようだった。つい応援してあげたくなってしまうような、初々しさや儚さ、切なさといった温かい気持ちが、まるで僕の心に訴えかけるかのように、ひしひしと伝わってくる。 そのように見えてしまった以上は、彼女の恋が成就するよう、応援せざるを得ないだろう。たとえ思いを寄せるその対象が人ではなかったとしても、恋をしていることに何ら変わりはない。 では、何に? ゴキブリに。 2 ゴキブリ。 ゴキブリ目に属する昆虫の総称。身体は著しく扁平で楕円形、褐色あるいは黒褐色が普通。長い髭を持ち、全体が油を塗ったように光っていることから『油虫』とも言う。非常に素早く、飛翔する。全世界に三千七百余種生息し、熱帯に多い。陰湿な場所を好み、夜間に活動して摂食する。 と、詳らかに説明しなくとも、ただ『ゴキブリ』と言いさえすれば、大半の人間にはそれがどのようなものであるか理解してもらえるだろう。そして、それが人間にとってどういう存在であるのかも、容易に想像できる筈だ。 害虫。 ゴキブリという言葉を聞いて一番に浮かぶのは、この二文字を置いて他にないと思う。事実、ゴキブリの存在は、人間にとってまるで利益を齎さない。それどころか、食品を汚染し、各種の病原菌や寄生虫を媒介する、迷惑極まりない虫である。それならば、害虫と呼ばれ、新聞紙で叩き潰されたり、殺虫剤を吹きかけられたりしても仕様がないだろう。ゴキブリの方からすれば、それはこの上なく理不尽な考えなのだろうが、生憎この世界は、常に立場の強いものが、立場の弱いものを支配するように作られてしまっている。だから僕は同情しない。それがゴキブリに課せられた宿命であるのならば、それの是非について考えるだなんて、人生の無駄遣いも甚だしい。 ゴキブリは害虫。そんなことは年端もいかぬ子供だって知っていることだ。しかし、彼女はそれに対し、至って真剣に反駁する。 「油虫の存在は百害あって一利なしというけれど、それは大きな――いいえ、大きすぎる誤りだわ。だって現にこうして、これ以上とない利益を与えてもらっている人間がいるんですもの」 ゴキブリは害虫だと主張する僕に対して、彼女は決して怒ることなく、むしろ嬉しそうに返した。与えてもらっている、という受動的な表現に彼女のゴキブリ――否、油虫に向けられた想いの深さを感じる。 いついかなるときも、彼女の熱い視線はそれに注がれている。僕を見ることは一度たりともない。まるで僕などそこに存在しないかのように。 3 彼女は学校にいる時はいつでも、教室の片隅で、一匹のゴキブリが入った虫かごを眺めている。それは、僕がこの学校に転校してきた時から、いや、転校してくる前から、何も変わっていない。 クラスメイトたちは、彼女のことを、まるでそこには存在しないかのようなものとして見ている。彼女は誰からも相手にされない。嫌われることもなければ、蔑まれることもない。彼女は一切の感情を向けてもらえない女の子だった。 けれども彼女は、何故か嫌な顔ひとつしなかった。その理由は明々白々である。ゴキブリが傍にいるからだ。 彼女はゴキブリを、ただ眺めているだけだ。決して喋りかけることなく、口許に薄っすらとした笑みを浮かべながら、それを見ているだけだ。 今になって考えてみれば、そんな気味が悪い女の子に、どうして接触してしまったのだろうと思う。しかし、それもまた運命だったのかな、とも思う。 ゴキブリが人から忌み嫌われるように。 それを彼女がこの上なく愛でるように。 彼女と僕との交わりも、言わば必然的なものだったのだろう。尤も、そう思っているのは僕だけなのかもしれないのだけれど。 4 今日の放課後も、今はもう使われなくなった生物部の部室に、彼女の姿はあった。 「この翅を見て。私の目には、存在そのものを全肯定したくなるほどに、油虫はとても美しく映るけれど、中でもこの翅は特別なの」黒々と鈍く光るゴキブリの翅を指差しながら、彼女は言う。「この色といい、艶といい、形といい――まるで、宝石みたいじゃない?」 その口ぶりは、まるで、父親に、自慢げに恋人を紹介する娘のようだった。 けれどもその視線や意識は恋人に集中するばかりで、父親のことなどまるで意に介しない。彼女にとっては、父親が何を思っているのかなど、全くもって関係がないのである。興味のあるものにしか目を向けないのが彼女の本質であるのだが、はいそうですかと頷けるほど、僕も大人ではない。しかし僕はただひたすらに、彼女の話に耳を傾けるよりほかなかった。 寂しいとは思わない。 けれども、どこか悔しかった。 「この世には、まだ発見されていないものも含めて、数え切れないほどの昆虫がいるというけれど、これほどまでに色鮮やかな翅を持った種を、私は知らないわ」僕の返事を待たずに――そもそも僕の言葉に耳を傾ける気なんて、更々ないのだけれど――彼女は続けた。「いい? 油虫の翅に勝る翅を持つ昆虫なんて、存在し得ないの。無論、昆虫に限った話ではないわ。地球上に生息する全ての生き物と較べても、油虫は断じて負けはしないのよ」 頭がおかしくなってしまうほどに、彼女はゴキブリにご執心だった。ゴキブリが傍にいさえすれば、それだけで彼女は生きていけるのだ。 虫かごに囚われた一匹のゴキブリ。身の回りの世話は当然彼女がやっているのだが、それをゴキブリを決してよしとはしないだろう。 暗く湿った地面を縦横無尽に走り回りたかろう。 青く広い空には届かない所で飛び回りたかろう。 ゴキブリの自由を彼女は奪った。 ゴキブリの自由は彼女に奪われた。 僕はその至極独善的な行いに、何とコメントすればいいのだろう。常にゴキブリを見つめている彼女をただ見ているだけの僕は、本当はどうすればいいのだろう。 そんなくだらなくも真剣な悩みに頭を抱える僕に、やはり彼女は一瞥さえも寄越さなかった。 5 ある朝のことだった。 いつもどおり二人で登校し、部室に虫かごを取りにいった時、彼女はちょっとした――けれども大きな異変に気づいた。 虫かごの中で、ゴキブリが、いつも以上に扁平になっていた。むしろ、まっ平らと言っても過言ではないだろう。 ゴキブリは――彼女の恋人は、網目の監獄の中で、全身を新聞紙か何かで叩き潰されて、息絶えていたのだ。 それを見た彼女は何も言わなかった。それどころか、顔色一つ変えずに、恋人の亡骸に視線を落としているだけだった。 彼女と僕との間には、永遠を思わせるかのような長い沈黙が流れた。彼女は何も言わない。動かない。僕も、それに倣った。慰めの言葉をかけることもないし、今は二人きりにさせてあげよう、などと気の利いたこともしない。 そして、どれだけの時間が経過しただろう。それは永遠でもあったし、一瞬でもあったような気がする。 突然、彼女はいつもと変わらない調子でこう呟いた。 「死してなお、これだけの輝きを保ち続けられる翅を持った生き物が他にいるかしら? いいえ。そんなものは……、存在しない。存在しては、ならないの」 命が尽きても、まだ黒い光を放ち続けるゴキブリの翅を見つめながら、彼女はさらっと言ってのけたのだ。 もしかしたら、彼女はこう思っているのかもしれない。自由を奪った時点で、このゴキブリは既に死んでいたのだと。自分がこのゴキブリを殺したのだと。だから悲しまない。嘆かない。うろたえない。決して僕に、感情の激発を見せることはない。 それから幾許もなく、彼女と僕は校内の隅にある小さな花壇のようなものに、ゴキブリの死骸を、あの輝かしい翅ごと埋葬した。小さいけれども、しっかりした墓標も立てた。これで暫くのうちは、忘れられることもない。 真新しい、恋人の墓の前で、彼女は両手を合わせながら言った。 「代わりなら幾らでもいる――とは思わないわ。あの油虫は、世界に一つだけの存在だった。それは永遠に変わらないし、変えられない。だって人も油虫も、全ての生き物も同様に、命は一つと、定められているのだから」 結局のところ、最後の最後まで、彼女の視線はゴキブリのみに向けられていた。その黒い双眸が僕を捉えることは、やはりなかった。 奇妙な敗北感に打ちひしがれた僕は、去り際に、彼女の瞳に小さな水の粒を発見する。 彼女の恋は終わった。 しかし僕は決して告白しないだろう。 それを終わらせたのが、この僕であることを。 了 ☆あとがき(みたいなもの)☆ この前、課題用として書いた短編小説です。 『ゴキブリの翅』というタイトルは数ヶ月前からずっと頭の中にありまして、いつか書けたらいいなと思っていましたが、まさかこんなお話になるとは思ってもみませんでした。 何せ一時間ほどで一気に書き上げた作品ですからね。 その場の勢いに任せたら、こんな「そりゃねえよ!」な展開になってしまいました。 まあ、少しでも楽しんで頂けたら幸いです。 あと、これを友人であるリーダーに読んでもらったところ、「主人公ってゴキブリ女のことが好きなのか?」みたいなことを訊かれました。 皆さんの中でも、そういう風に思った人はいるかと思います。 では答えをば。 すばり、「どうでもいい」です。 好きなのかもしれないし、むしろ嫌いなのかもしれない。 でもそんなことはどうだっていいんです。 そんなことは、全く重要でないんですよ。 そこのところは、皆さんのご想像にお任せします。 各人、好きなように妄想を広げて下さい。 あと、この作品を読まれた人は、どんなことでも、どんな短い文でもいいので、感想を書き込んでくれるとありがたいです。 本当にお願いしますよ! 今日の日記は後ほど。 “The wing of a cockroach”closed お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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