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テーマ:中国&台湾(3304)
カテゴリ:杭州・蘇州旅行記
今日は、大変お待たせしてしまっていた(待ってない?)杭州の旅の続きです(笑)。
さて、雷峰塔を出発した車は、西湖の西側の新緑の木立の中を走ります。 このあたりは、涼しい避暑地といった雰囲気の場所で、外国人観光客も多く見かけます。 道すがら、いたるところでサイクリングの人達とすれ違いますが、みんなとても気持ち良さそうです。 20分ほど走ったでしょうか、目の前に大きな構えの「岳王廟」の楼門が現れました。 廟内はかなり広くて、多くの樹木に覆われています。 ここにも大勢の中国人観光客が訪れていました。 さて、中国の長い歴史の中で、武人の鏡と称えられて、人々の敬慕を集めてきた武将が二人いると言われています。 その一人は、あの三国志でおなじみの関羽(かんう)であり、もう一人がこの岳飛(がくひ)だそうです。 ここは、その岳飛を祀った廟なのです。 岳飛が活躍した宋の時代は、前にも触れたように、文治に力を注ぎ外敵の備えを怠たりました。 その結果、宋はしばしば北方の異民族に攻め込まれています。 彼は、その北方民族との戦いに指揮官として活躍し、大きな功績を残しましたが、最後は非業の死を遂げます。 そんな彼の人生をたどってみました。 岳飛は、西暦1103年に今の河南省にある当時の宋(北宋)の都「開封」の近くの農家に生まれました。 暮らしはあまり楽ではなかったものの、彼は文と武の両面の素養を身につけながら育ったようです。 彼は幼い頃に父親を亡くし、母親に育てられました。 この母親がとても愛国心が強い人で、岳飛が子供の頃に彼の背中に「尽忠報国」という刺青を入れたと伝えられています。 彼は体格も恵まれ、弓の腕前は相当だったようです。 廟の中には、そんな姿を髣髴とさせる凛々しい像が建っていました。 周りには、彼の生い立ちや活躍ぶりを説明する絵が飾られています。 文武両道をおさめた彼は、1123年(20歳のとき)に、当時北方民族の金と戦っている義勇軍の募集に応じます。 その後、後に今の杭州を臨時首都とする南宋王朝を起した高宗のもとで、彼は次第に頭角をあらわします。 そんな中1126年に首都開封が陥落すると、先代の皇帝徽宗と現在の皇帝欽宗は他の多くの者と共に、金へ連れて行かれ、宋王朝(北宋)は崩壊してしまいます。 しかし、欽宗の弟高宗はなんとか逃げ延びて、この杭州で南宋王朝を興します。 岳飛は岳家軍という組織を作り、金との戦いにおいて目覚しい戦果をあげ、一時は首都開封を奪回する目前まで進軍します。 人々は岳家軍に大きな期待を寄せて、高宗の信頼も厚かったようです。 専守防衛を余儀なくされていた南宋王朝において、彼はまさに救国の英雄だったわけですね。 これをみた北方民族の金は、皇帝とともに連れ去っていた宋の宰相だった秦檜(しんかい)を南宋へ戻します。 南宋の領土まで治めるほどの力をもっていない彼等は、岳飛の進軍に対し講和を図ろうと考えたのです。 もともと弱気の皇帝高宗は、秦檜を宰相に採用し、岳飛の反対する中、最終的に南宋にとっては屈辱的な講和に進みます。 首都奪回まであと一歩というところまで来ていた岳飛軍は、撤退を余儀なくされ、取り返した領土もすべてまた金に奪われてしまったのです。 戦いから戻った岳飛は、秦檜の決定によって、実戦部隊とは隔絶された中央の官職にされてしまいます。 一方で、岳飛の力を恐れる金からは、岳飛を殺すようにという手紙が秦檜のもとに届きます。 講和を急ぐ秦檜は、部下を使って謀反の罪をでっちあげ、岳飛と息子岳雲を捕らえ牢獄へ入れてしまいます 。 そうして、1141年に秦檜の手によって、金との講和が成立します。 秦檜にとって、主戦派の岳飛は危険な存在だったに違いありませんが、その対応は決めあぐねていました。 講和が成立した直後のある日、秦檜の妻が彼にこう言ったと言う事です。 「あなたはなんてグズなの、せっかく捕まえた虎をまた放したりしたら、それこそどうなるの?」 それを聞いた彼は、部下に命じて岳飛を牢獄で毒殺してしまいます。 時に1141年12月29日、岳飛39才のまだ働き盛りの年でした。 岳雲も斬罪に処され、一族は財産没収し嶺南の地へ流されたとのことです。 廟内の一角には、そんな非業の死を遂げた、岳飛と岳雲のお墓がありました。 その後、岳飛は疑いも晴れ、えん罪をすすがれて、愛国心に燃えながらも悲運の死を遂げた救国の英雄を、人々は崇拝の対象としたとのことです。 彼は「岳王」と言う王の称号を贈られ、このゆかりの地に廟が建てられて、今でも中国で絶大な人気を誇っているそうです。 一方の秦檜の方は、その後も南宋の宰相として権力を握り、一生を終えたそうです。 しかし、その死後のふたりの扱いには雲泥の差があります。 救国の英雄と崇め奉られている岳飛に対し、秦檜はその非情な行為から、売国奴として罵られることになってしまったのです。 英雄を死に追いやった秦檜とその妻、それに加担した2名の部下の像は、その廟の一角で鉄の檻に入れられ惨めな姿をさらしていました。 岳飛に対する同情や信仰心は、逆にこの4人の像に対する怒りや憎みとなって現れているようで、明代以降今までに6回も打ち壊しにあったそうです。 今でこそ禁止の表示がありますが、解放前まではこの像につばを吐いたり、足蹴にする人が後を絶たなかったようです。 ここまでするのは、日本ではちょっと考えられない事ですが、そこはやはり中国です。 とかく戦う事が好まれるお国柄、こうした扱いもわからなくはないのですが、戦って結果はどうなったのかは誰もわかりません。 ただ、やはり人をだまして死に追いやる事だけは、許しがたいと多くの人が思っているのでしょう。 岳飛と秦檜、同じ時代を生きた両極端のふたりでしたが、何か今の時代にも通じるものがあるように感じますね。 さて、次はいよいよ西湖のほとりへ向かいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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