|
カテゴリ:生活・文化
法華経などの経典の必要性は、やはり直接如來が出現してそれを説くことを聞かなくても、衆生自らがただ経典だけで修行して成佛を目指す仕組みになっているのでしょう。
ですから、佛や如來は経典の教え以外の佛法を各々独自に所持しているものと考えられるのです。 よって、法華経はこの世の衆生用に置かれてあるのが第一の目的であるとすれば、如來よりも衆生の為に法華経はあると考えられますので、衆生が法華経の真実の教えを如來から間接に聞いても実に難信難解であるという意味になると考えられるでしょう。 よって、如來の成佛への教えは衆生自らに作佛せよ、という決まり事になっていると考えられますよね。 ですから、法華経の真実とは如來の説法のみから得れると思っていれば、実際はその難信難解な法華経に対し怨嫉多しということにもなるというわけでしょう。 よって、況んや滅度の後をやとは、ちょっと考えを変えれば、言うまでもなく如來の滅後のほうが楽に法華経を理解できるという意味にもなり得ると思うのです。 リンクHPへ ⇒ 第11-10日号 況んや滅度の後をや 【法師品第十】(五十九行~六十三行) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.09 22:56:38
コメント(0) | コメントを書く
[生活・文化] カテゴリの最新記事
|