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星とカワセミ好きのブログ

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2023.08.10
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今から37年前の1986年8月に、北海道を自転車で旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)

2日目は青森から函館へ移動しました。

【2日目 : 1986年8月10日(日)】
・夜行特急「八甲田」に乗り、上野駅から青森駅まで移動した。列車内はギュウギュウ詰めの状態で、シートに座れなかったので、通路に新聞紙や雑誌を敷いて座った。上野駅で知り合ったSさん、列車内で知り合った人たちと話が盛り上がった。列車は白河、郡山、仙台と進んで行った。夜の11時頃に眠たくなり仮眠をするも、トイレに行きたくなった人が通路を通るたびに、スペースを開けなければならず、熟睡ができなかった。それでも少し寝て、目が覚めると一戸付近だった。列車は二戸、八戸、浅虫を通り、青森駅に到着した。

・青森で青函連絡船「摩周丸」に乗船し、函館に向かった。200円でシャワーを浴びて、上野から一緒になったSさんと、甲板でビールを飲んだ。下北半島を越えて、函館山が見えて来た。Sさんは「函館山は東京タワーと同じくらいの高さですからね」と言った。

・函館港でSさんと別れ、函館駅で分解型自転車を組み立てた。慣れていなかったので、組み立てに1時間以上かかった。ここで、日本を歩いて一周している男性に声を掛けられた。

・自転車で五稜郭に行った。五稜郭タワーの上から五稜郭の五角形を確認し、景色を眺めた。

・湯の川温泉街を抜けて、トラピスチヌ修道院を見学した。海側を走り、啄木記念碑を見た。そのまま西に進み、墓地を抜けて立待岬に着いた。沖の漁火が見えた。

・函館山山頂までロープウェイで上がった。100万ドルの夜景を期待していたが、霧が立ち込め、何も見えなかった。夜景の写真が撮れず、残念だった。

・麓に下り、街を自転車で巡るが、バイク族がいっぱいいた。店でラーメン、焼売を食べた。

・市内の公園で野宿した。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
↓ 1986年8月10日(日)朝、急行「八甲田」が青森駅に到着。


↓ 青森駅から見た線路。ここで行き止まりになっている。



↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院より。
青森から函館へ、青函連絡船「摩周丸」に乗船。






↓ 青函連絡船「摩周丸」乗車記念スタンプ。1986年(昭和61年)8月10日。




↓ 函館市HPより。「摩周丸:青函連絡船記念館」の写真。
摩周丸は、青函トンネル開通により、1988年3月に運行を終了した。
今は、函館市の青函連絡船記念館として使用されている。



↓ 摩周丸の船内にある「船の現在位置」。
函館行き航路は青い線。青森行き航路は赤い線。
函館行きの青い線の中に、位置を示す赤い光が見える。



↓ 上野駅で知り合ったSさんと、摩周丸も一緒に乗船した。
左がSさん、右が私。


↓ 甲板でビールを飲みながら、記念写真。


↓ 有料望遠鏡で下北半島を見るSさん。


↓ 下北半島。




↓ 函館山が見えてきた。Sさんと記念撮影。



↓ マップルガイド17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)P12~13
道南地図。


↓ マップルガイド17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)P15
函館地図。



↓ 函館駅で記念撮影。


↓ 組み立てた自転車に乗って、五稜郭へ移動した。


↓ 五稜郭タワー。



↓「函館と五稜郭  五稜郭タワー史跡館ガイド/五稜郭タワー株式会社」


↓ 五稜郭タワーの概要。



↓ 函館五稜郭祭。毎年5月中旬開催!!



↓ 特別史跡 五稜郭。 函館戦争・己己の役。
維新戦争末期の明治元年10月、幕府海軍副総裁、榎本武揚は開陽以下8隻に幕軍諸隊二千を乗せ、北風荒ぶ蝦夷地(森町)鷲の木に上陸。
同、11月函館五稜郭を無血占拠し、榎本武揚はここに民主主義に根差した新政権を築く。
激動する歴史の狭間で新天地を夢見た男達のたった7カ月で消える幻の共和国の誕生だった。



↓ 五稜郭タワーの上から見た景色。五稜郭の五角形がよく分かる。










↑ 函館戦争当時あった五稜郭内の函館奉行所庁舎。
明治元年(1864年)、五稜郭が完成したとき、郭内に建築中であった函館奉行所庁舎も落成した。
それから3年後の慶応3年(1867年)、徳川幕府の大政奉還によって幕府直轄の血であった函館は新政府に引き継がれた。
しかし、翌明治元年、幕府海軍副総裁だった榎本武揚は、徳川旧幕に対する新政府の処遇を不服とし、品川沖から艦隊をもって北上し函館五稜郭を占拠し、函館戦争の拠点となった。
明治2年、榎本軍の降伏により新政府の管轄にもどったが、その後、賊軍が使用していたという理由で郭内の建物(函館奉行所)を解体してしまった。



↓ 函館奉行所跡発掘調査概要
明治4年、札幌に開拓使本庁を設置するのに伴い解体された函館奉行所庁舎跡について、発掘作業を行っています。この発掘作業は市立函館図書館に残されている「五稜郭内庁舎平面図」をもとに進められています。尚調査期間中はグラウンドの使用が、昭和61年(1986年)6月2日~10月3日まで出来ませんので無断で立ち入らないように願います。
函館市教育委員会。






↓ ほっかいどう函館五稜郭 カラー記念スタンプ。










↓宗教法人 天使の聖母トラビスチヌ修道院。
明治31年(1898年)、フランスから派遣された8人のシスターが始めた修道院。






↓ トラピスチヌ修道院で記念撮影。



↓ 石川啄木の案内板。
この辺りは、かつては砂丘が湯の川まで続き、ハマナスが咲き乱れ、啄木が好んで散歩した所であり、歌集「一握の砂」に「砂山の砂に蟹遊び初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」と歌われている。
函館市。


↓ 石川啄木像。


↓ 石川啄木像と記念撮影。
「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ今年も咲けるや」と台座に記されている。


↓ 北海道旅行のために購入した分解型自転車。
この自転車は、北海道旅行の後、東北旅行、そして社会人になりオランダ赴任になった時も持参し、オランダ国内やドイツのライン川街道などを走った。



↓ 立待岬近くの石川啄木一族の墓にて。
石川啄木「東海の小島の磯の白浜にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」

 ①「宮崎郁雨(みやざきいくう)の歌碑。
郁雨は歌人で、家業の味噌製造業を行った。石川啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。

②「砂山影二」の歌碑 (写真の下の歌碑)
歌碑は影二の歌集「坊ちゃんの歌集」の冒頭の作品。大正10年5月、世をはかなんで青函連絡船から深夜の津軽海峡に身を投じ、弱冠20歳の生命を断った。



↓ 立待岬(たちまちみさき)。


↓ 沖に漁火が見えた。


↓ 立待岬で記念撮影。


↓ 墓地の奥は、函館山。



↓ 函館山と高田屋嘉兵衛の像。
高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)は、江戸時代後期の廻船業者で、淡路島出身。函館で商売を行い、函館の発展に貢献する。
1811年、千島列島を測量中のロシア軍艦ディアナ号艦長のゴローニンなどが、国後島に上陸した時に松前奉行の役人に捕らえられ、約2年間、函館の松前に監禁されたというゴローニン事件が起こった。翌1812年に高田屋嘉兵衛の船が同船副艦長ピョートル・リゴルトに拿捕され、カムチャッカに連行されたが、高田屋嘉兵衛が仲介役となり、ロシア側から謝罪文を貰う事で、ゴローニンは釈放され、事件解決となった。




↓ 函館山ロープウェイの搭乗券。




↓ 函館山山頂。


↓ 伊能忠敬 北海道最初の測量地 プレート。(函館山山頂)



↓ ブラキストン(Blakiston)のプレート。(函館山山頂)
イギリスの動物学者トーマス・ブラキストンは、津軽海峡の北と南で、動物の分布に相違があると考え、津軽海峡でブラキストン線という境界線を提唱した。
例えばクマならば、この線を北限とするのはツキノワグマで、この線を南限とするのはヒグマ。


↓ 函館山。


↓ 明治館。



ーーーーーーーーーーーー
↓ 函館で押した記念スタンプ。1986年(昭和61年)8月10日。


















ーーーーーーーーーーーーー
↓ NTTテレフォンカード (函館)を購入した。


↓ きた北コール北海道のパンフレット。




↓ テレフォンサービス :音楽で描く「函館の夜景」に電話を掛けて聞いた。




↓ NTT観光テレフォンカードの案内。このころはテレフォンカードがブームだった。





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最終更新日  2023.08.19 19:58:38
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