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2017.10.09
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​​​御念仏する心
        山本幹夫
(昭和二年 山本空外上人が二十五歳の時 『ミオヤのめぐみ』に寄稿文)


 ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツとお念仏を申します場合に、私はいつでも「如来さま、どうかよきようにお導き願いとうございます」と最初に念じて、それからお念仏しております。​​​

 そして一度《ひとたび》、お念仏申し始めてからは、もう他のことは一切思わないで、ただひたすら、お念仏を申すのみであります。

 その場合、もちろん、人の質によるものでしょうが、私自身としては、どうも今までの経験結果、仏さまのみ姿を心に描くよりも、自分のお称えするお念仏の声に心を向けて申す方が、心に合うように思うのです。

 それで私は、いつでもお念仏する時には、弁栄上人さまのお画きくださいました三昧佛さまの尊前で申すものですから、したがってその三昧佛さまを通じて、否、その尊像と二つでなく、そこに、そのまま、如来さまの在《ましま》すことを信じて、お念仏を申しています。

 ですから、無理に工夫して心に如来さまをえがくということをしないで、自分の称える声を、勿体なくも如来さまのお応えくださる声として、ありがたく耳に聴きながら、その声に自分の心を向けて、一心にお念仏を申しております。
 自分の声ですから絶えず耳に聞こえております故、ふと心が他に向かう場合があっても、すぐ心を取りなおし向けなおしては、自分が申すお念仏の声に、心が向かう点をきめておるわけです。

 そして一声ひとこえに心を如来さまに通わせているうちに、乱れがちな心もやがて静まって、そのまま如来さまの世界が開けるように思うのです。

 私はいつもそのような心持ちで、朝のおつとめも、夕のおつとめも、なおまた別時のような場合でも、そして平生道を歩く時でも、できるだけ時間を生かしてお念仏を申しているのです。

 しかし、それでは一体何のためにかと問われましても、別に他に目的があるわけではありません。

 というのは、なるほどお念佛を一心に申してさえおれば、いつかはありがたくもなりましょうし、霊感に触れましょうし、また永遠の生命を自覚してまいりましょう。

 だが、ある人がお念佛を申してありがたくなられたからとて、私もまたありがたくなるためにとか、ある人は霊感を得られたからとて、私もまたそのような霊感を得るためにとか、またある人のいうように生き通しの命にめざめるためにとかいう損得勘定からは、お念仏を申してはおりません。

 もし、そんな具体的な目的を念願する上からのお念仏であれば、万一そんな目的が成就されない場合には、お念仏そのものも、その手段として無意味になってくるでありましょう。なおまた、合点の早すぎる人は、ある場合にはこれこそお念仏の目的が成就したと考えて、いわゆる三昧発得の夢に迷う人さえ生ずるでありましょう。

 しかしながら、何がどうあろうとも、お念仏は、申さずにはいられないような、それ自身が価値を持っており、それ自身が目的であり得るのではないのでしょうか。

 普通よく「いったい何のためにお念仏をするのか」とお尋ねになる人があります。

 結局のところ「何のために」ということは理論上の問題であって、少し頭の鋭い人でさえあれば、信仰の上には、そんなことは余計な問題だと思われるのに躊躇《ちゅうちょ》されぬでありましょう。

 「何のために」という質問を次へ次へと繰り返していけば、たとえば、お念仏するのは「極楽往生のため」という人があった時、それでは、「極楽往生して何になる」と、さらに問い返し、またその答えにたいして、それはまた「何のために」と尋ねていけば、やがて問う人も聞く人も、信仰上のなんら得るところのない議論に終わりましょう。

 それだけではありません。「なぜお念仏するか」という問題は「なぜ禅の修行はしないか。なぜキリスト教のお祈りはしないか」、言いかえれば「なぜ他の諸宗教を採《と》らずに光明主義のお念仏を申すのか」という極めて興味が多いと同時に、この上もなく困難な問題と関連しています。

 かような理論上の問題を、たとえ容易に片付けてみたところで、あるいはまた、苦辛して研究してみたにしても、そんなことは、お念仏の修行には直接なんの関係もないことです。

 少なくともお念仏している以上は、何らかの理由があるに違いないと聞く人もありましょうが、私はその問いにたいして「皆さまのどなたとも同じように、不思議なことには、他の諸宗教には入らないで光明主義のお念仏を申させていただく因縁のまわりあわせになりました」とお答えするのみであります。

 我われが理論をもって何の目的なるかを答えれば、また理論をもって、その答えに異論の生ずるのを免れますまい。しかし事実だけは否定するわけにはいきません。私はここに、唯、実際のコトワリを述べさせていただこうと思うのであります。

 一体、よく考えれば、たとえいくら聞いたにしても如来さまとはどんなお方かということさえも、ほんとには実際わかっていないはずのものですから、お念仏を申すことも、理論的には不可能のことでしょう。しかし、実際は「不思議な因縁のまわりあわせ」から、最初に述べましたような心持ちで、お念仏を申し続けさせて頂いております。
 お念仏の世界は、我われの理屈でこしらえる世界ではなくて、如来さまの世界であるがためか、そしてすべて如来さまにおまかせ申して「如来さま、どうかよきようにお導き願いとうございます」とのみ念じて、一心にお念仏を申しているがためか、ともかく、理論上から言えば、既にお念仏を申す前からわかっていなければならないはずの如来さまのことや、お念仏のいわゆる目的にあげられるようなことが、お念仏を申して初めて実感せられてくるように思われるのであります。

 事実は理論と逆に現れて参ります。しかし、事実だからこそ、いかにしてもこれを否定することは不可能であり、しかも、この事実は我われ自身に無限の力を与える事実なのです。


 ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと称えるお念仏に、不思議にも心が自ずと開けていく歓喜《よろこび》は、他のいかなるものにも換えがたきものとなり、従ってまた、お念仏せずにはおられないようにもなってくるのでありましょう。

 この宗教的な経験は、自己の生活全体の基礎となり、何事もお念仏の中になされるところに、生活そのものも霊化されるのでありましょう。

 しかし、生活の霊化の程度にもいろいろあり、宗教的な経験そのものにも、無限の深みが可能であるということを忘れてはならないように思われます。

 無限の深化でありますが故に、念仏修行がこれでよいという終点、ここまでという峠は決してない。ですから永遠の向上を目指すほかはありません。


 最も肝要なことは、次のことが唯一です。
 一度《ひとたび》お念仏申させていただく尊き因縁のまわりあわせになった以上、能《あた》うべくんばその好機をこそは手放さないで、一生を通じて限りなく、一生懸命お念仏するということでありまして、その道中、特に心して却《しりぞ》けるべき悪魔は、じつに高慢《こうまん》と懈怠《けたい》とであります。


 真実心と忍耐力とは信心の骨子であるというべきでありましょう。

 唯、一心に精進の途《みち》を辿《たど》ることのみが第一です。    了



   『自然のくらし』空外語録28「勢至菩薩」無二会刊 より 引用


               






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Last updated  2017.10.09 18:34:14
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